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バイク自己ベスト連発の謎

ども。さっしー@今日もチャリンコです。

なんかね、「今日も40km全力チャリかぁ・・・」と思うと、毎朝テンション下がるんだけど。
渋々乗り始めて、4kmくらい、ちょうど最初の鬼坂を超えたあたりでテンション上がってきて、残りの36kmくらいをヒーヒーフガフガ言いながら結局全力疾走している。
そこそこアップダウンの20kmコースを2周するのが定番で、半分以上はそのコースでタイムを測っている。
怪我をしてランニングを自粛して以来、バイクのタイムがなぜか飛躍的に伸びているのである。
今回はその謎について、仮説を立ててみた。

<現象>
同じコース、同じ季節、風力は日によって異なる。
1ヶ月程度の間に、40km全力走のタイムが、約7分短縮。
(80分台→73分台)
これはかなり劇的。
ランニングで10kmのタイムを1分縮めるには、血を吐く努力が必要。
しかも今回、それほどがんばった意識はない。

<平凡な推察と反駁>

  • 素人はやればすぐ伸びる
  • 僕のバイクは未熟ではあるが、シロウトではない。
    すでに5年以上やっているし、ロングトライアスロンを上位2割くらいの順位で3度完走している。

  • 先日、サドルとタイヤ替えたせいじゃない?
  • その効果はあると思うが、以前バイクやりこんでたころは、エアロバーをつけていた。
    (今はつけてない)
    それで十分チャラだと思う。
    それに、パーツ交換後も乗るほどにベストを更新している。

  • 技術が向上した?
  • そうだとうれしいのだが・・・そうトントン拍子に技術が伸びるとも思えない。
    もちろん、なめらかなペダリングは毎回意識してはいる。

<考察>
心拍数をモニターしてみると、初期段階において、限界と思える強度(急な上りなど)でもせいぜい140そこそこであった。
それが、現時点では、全体を通して、145~155のあたりで走り続けることができる。
(もちろんずっと苦しいw)
実感としては、有酸素運動能力が日に日に向上しているとしか思えないのである。

有酸素運動能力には、酸素供給能力と酸素消費能力がある。
酸素供給能力は、主に循環器系の能力だ。
肺活量、心拍あたりの拍出量、毛細血管の量、などなど。

赤血球の中のヘモグロビンが酸素を運搬する。鉄不足で貧血になるのは、ヘモグロビンが鉄を原材料の一部としているため

酸素消費能力は、循環器系から酸素を受け取る側、つまり筋肉の能力。
どれだけ燃料(酸素)があっても、エンジン(筋肉)の容量が小さければ、高出力にはならない。
これは、筋肉の量×質(筋あたりのミトコンドリア量)が決めるはずだ。
ミトコンドリアは各細胞のなかにある構造物のひとつ(細胞内小器官)であり、酸素を使ってエネルギーを産生する働きがある。
どれだけマッチョな筋肉があっても、ミトコンドリアが足りなければ、持久系競技では無意味(重くなる分だけマイナスかも)。
持久系競技選手の筋肉は、ミトコンドリアを多量に持ち、そこに十分な酸素を届けるための毛細血管を発達させたものでなければならない。

元々、各細胞にものすごい数含まれているが、筋細胞のミトコンドリアは、鍛えれば増やせるらしい。

さて、ここからが仮説である。
僕はこの1年ちょいの間、ランニングで血を吐くような走り込みをしてきた。
(とか言うと、苦しんできたみたいだが、めっちゃ楽しんでたので)
そこで、酸素供給能力について、かなりの向上があったはずだ。
だがその間、バイクに乗る機会はとても少なかった。
つまり、バイクに必要な筋肉について、酸素消費能力はほとんど向上しなかった。
僕はラン筋、バイク筋と呼んでいるが、それらは、共通する筋肉もあり、全く異なる筋肉もある。
特に、バイクに特有の筋肉について、酸素消費能力が向上しなかったはずだ。

つまり、十分な酸素供給能力に対して、律速段階であった酸素消費能力が短期間で向上したというわけだが、筋肉量や毛細血管は、短期的に増えるものではない。
よって、ミトコンドリアが劇的に増えているのではないかというわけである。
ミトコンドリアの増殖速度については、専門的な論文を熟読しないと裏付けはムリなので、それは今回諦めるw

この仮説が正しければ・・
十分な酸素を提供してやることで、筋肉のミトコンドリア増殖は大いに加速するということだ。
酸素供給能力を超人的に高めてやることができれば、その後は様々な持久系競技において、短期間のトレーニングで高いパフォーマンスを期待できるということではないだろうか。
つまるところ、持久系競技においては、ゼェゼェと呼吸を追い込むトレーニングが鉄板!
科学的、効率的トレーニングはその次!
てなわけで。

ま、チャリ漕ぎながら思いついた脳内遊戯です、あまりアテにしないでくださいませw
ではまた。


ストレッチの授業料

ども。さっしーです。

今日は久しぶりにプールスイミング。
走れないフラストレーションをバイクにぶつけたいところだが、レースまであと10日ほど。
足が治るのを祈りつつ、疲労抜きもしっかりしておかなければ。
マイペースで1000mほど泳ぎながら、「なんでこんなことになったんだっけ・・・」と考えていた。

これまで何度か書いた気がするが、この足底筋膜の直接の原因はオーバーワーク。
そして遠因は足首の柔軟性低下であり、ケア不足。
誤解を恐れずバッサリ言えば、「ストレッチをサボった」であるw

いや・・サボったという言い方は「やらなければならないとわかっていて、手抜きをした」というニュアンスがあるが、僕は「やらなくても問題ない」と思っていたのだ。
そう、過去にこのブログでも書いたかもしれないが、「長距離ランナーにストレッチは不要」と信じていた。
「だってほら、ストレッチなしでこんだけ走り込んでるのに、俺、怪我しないでしょ」
みたいな感じで。
(ストレッチはしなかったが、ポイント練習前には、軽いセルフマッサージや準備運動はしていた)

だがしかし、振り返ってみれば、本当は怪我してたのだ、自分。
マラソンを始めて以来最悪の怪我は中足骨の骨折だったが・・・これは泥酔して転倒した怪我なので関係ないw
他に大きいのはふくらはぎの肉離れ、軽度のはたくさんあるが、アキレス腱周囲炎や腸脛靭帯炎、ぎっくり腰、謎の腹筋痛、ハムストリングの痙攣癖などなど。。
今回の足底筋膜は、肉離れと並ぶ「重症」レベルだな。。
ひどい怪我は少ないが、これだけいろいろ経験してきてなぜ、「ストレッチと怪我は無関係」と信じていられたのだろう。

泳ぎながら、はたと気付いた。
僕は、柔軟性不良による怪我というものに、先入観があったのだ。
僕は7歳ごろから高校卒業くらいまで、町道場に通って少林寺拳法というのを習っていた。
二十歳前後のころには、1年間くらい、ボクシングに夢中だった。
格闘技というのは、瞬発力が命で、その点では陸上競技など比にならない。
渾身の上段蹴りを放ったときに、下半身の柔軟性が低下していれば、即故障。
硬い床での受け身をとるとき、上半身がしなやかに動かなければ、即故障。
どちらもその間約0.1秒w
だから格闘技をやっていたころは、練習前に必ず、念入りなストレッチをしていた。
(それでも怪我したが)
僕にとって、ストレッチ不足による怪我はそういうものだったらしい。
とにかく、そう思い込んでいたようだ。

たしかに、ランニングでは、0.1秒で起こる怪我というのは少ない。
特に長距離では。
何週間、何ヶ月もかけて起きる不調は、「技術不足」「フォームに難あり」という見方だった。
今回の教訓として、「今日のストレッチが3ヶ月後の怪我を予防する」と銘記しようw

いやはや、思い込みというのは厄介だ。
「これは思い込みだ!」と自分だけで気づくのは非常に難しい。
なにしろ、本人にとって「常識」であり、「疑う余地がない」からこそ、それを思い込みと呼ぶのだから。
今回の件にしても、ひどい怪我をしたからようやく、その思い込みにメスをいれることができたのだと思う。
高い授業料だったなw
行き掛けの駄賃で、もう二三、自分の思い込み事案(ランニングに限らず)を見つけてやっつけてみたらどうだろう、と思ったが、やっぱりそうそう見つかるものではない。
結局、必要なタイミングで、高い授業を払うしかないんだろうな。

荒川弘「鋼の錬金術師」より

そういうわけで、これからも体当りして痛い思いをしながらやっていきたいと思います☆
ではまた。


マラソンQ&A

ども。さっしーです。

宿のオヤジアスリートをやってると、ゲストさんたちとのおしゃべりの流れで、いつも聞かれる、定番の質問がある。
ふと、それらを思いつく範囲でまとめてみようと思った。
ちなみに、僕が思っていた以上に、走るゲストさんは多い。
軽く健康のために~、から、ガチで肉体の限界極めます、みたいな人までw
走る人、あるいはその他の種目のアスリートの方々とは、それはまた微に入り細に入り、多様なおしゃべりが展開するわけだが、今回は素人さんたちの定番の質問を集めてみた。

Q.走っている間、何を考えてるんですか

A.なにか考えてるわけじゃないです。
走りに集中してるときは、体調、筋肉の動き、天候、路面の状況などを、車の運転手のように観察してます。
気持ちを抜いてるときは、脳内図書館で漫画など読んでますw

Q.何が楽しいんですか

A.さぁ??僕は、人間というのは走る生き物だと思ってます。
鳥が飛ぶ生き物であるのと同じで。
だから、「走って何が楽しいのか」、という問いは、鳥に「飛んで何が楽しいのか」、魚に「泳いで何が楽しいのか」と聞くのと大差ないです。
食事にせよ、睡眠にせよ、性交にせよ、生物に必要な行為は、気持ちいいと感じるようにできています。
子どもたちが、無意味に叫びながら、満面の笑顔で走り回っているのが証拠ではないでしょうか。
興味があれば、ベストセラーになった、「BORN TO RUN」 を読んでいただくのがおすすめです。

Q.毎日走ってたら、絶対太らないですよね

A.そんなことないです。
体質と年齢、生活習慣次第です。
通常、中高年であれば、どれだけ走っても、食習慣に無頓着なら太ります。
僕は太る自信があります。

Q.すっごくストイックですよね

A.それは違います。
ストイックとは、古代ギリシャの哲学流派、「ストア派」が、教義を重んじる禁欲的な集団であったことから来る言葉らしいですが、
僕は快楽主義者なので。
そりゃ、血を吐く思いで追い込む練習も嫌いじゃないですが(笑)、それもすべて、長期的には、勝利(目標達成)の充実感、
短期的には、その日の満足感と旨いビールを楽しみにやってることで、全然禁欲的じゃないです。
いや、むしろ最近は、追い込むこと自体がなにかしら快楽のような・・・

Q.ドMですよね

A.それは否定しません

Q.100KMも走るなんて、信じられません

A.誰でも最初はそうです。

Q.私は運動音痴なので・・・

A.走るという行為は、人間のDNAに組み込まれています。
トップアスリートを目指すならセンスが重要かもしれませんが、誰にでも走る能力があります。

Q.挑戦してみたいけど、苦しいのはムリです

A.苦しい練習などしなくても、フルマラソン完走までなら誰でもできます。
友達でも家族でも、一緒にジョギングして、おしゃべりしながら走れるペースで走ってみましょう。
ゼェゼェいうような練習は、上級者を目指すようになってからで十分。

Q.部活をやっていましたが、仲間がいないとムリです

A.ムリならやめとけばいいです、これは遊びなので。
でも、中年ランナーの醍醐味は、セルフコントロールです。
練習メニュー、生活習慣、食事内容、それらを自分で管理すること自体が、手段であり目的でもあります。
極端に言えば、自分の人生を自分で決めていきたいと思うのなら、マラソンランナーになることは、非常に有意義です。

うーん、もっとある気がするけど、とりあえず今日はここまでw
とにかく、ランニングは、五体満足であれば誰でもできる、カネもかからず(かけることもできる)、バリエーションも広く、大会なども選びたい放題の、サイコーの遊びであることを明言しておきたい。

・・・あー、いや、だから苦しくないってば、ほんとw
苦しいのがやりたいならいくらでもやれるけど。

ではまた。


サイクリングコースを紹介

ども。さっしーです。

ここ数日、素晴らしい晴天が続いている。
まさに宮古の秋晴れ!!
青空が広がり、日差しは柔らかく、ほどよく湿度が下がっている。
朝の深呼吸が最高に気持ちいい!

さて、チェックアウトのゲストさんを見送ったら、いつものようにサイクリング。
ここのところ、血眼になってペダルをぶん回していたが、一息入れて、のんびり気持ちよく漕いでみようと思う。
コースも、タイムトライアルコースをやめて、お気に入りの絶景コースを♪
せっかくなので、このコースの見どころをいくつか紹介してみたい。

さんさーらを出て1kmで海岸道路に出る。
この先ずっと絶景w
アップダウンはやや多いので、慣れないと上りはそれなりにゼエゼエするかも。

その分、下りは爽快!!
信号も交差点もなく、歩行者もほとんどいない。
安心して気持ちよく飛ばせる♪

「ムイガー断崖」から後ろを振り返る。
そそり立つ断崖絶壁が脈々と彼方まで続き、その先におぼろげに東平安名崎灯台が見える。
大好きな景色なのだが、写真ではその迫力の半分も伝えられないのが不満。
だいぶ前のことだが、ここから撮った写真を、頼まれてNHKに提供したことがある。
うちにはテレビがないので確認していないが、番組で使われたそうなw
火野正平さんの「日本縦断こころ旅」という番組らしい。
ギャラの代わりか、後日番組の手ぬぐいが送られてきた。

ムイガーの山越えをしたら、長い下り!
ペダルを止めても50kmくらいスピードが出る。
漕いだら60kmは出るが・・・さすがに怖くて、それ以上試したことがないw
カーブで小石でも踏んだら多分死ぬ。

びゅーん、と気持ちよく下りきると、インギャーマリンガーデン。
ここの遊歩道も絶景なので、ちょいとチャリを降りて散歩でも・・・と思ったが。
なんと、レーパンを裏返しに履いていることに気づき、恥ずかしくてチャリから降りられずw

インギャーのT字路を右折して内陸へ。
ここは宮古屈指の鬼坂。
スローペースでも少々息が上がる~~

歩道にドラゴンフルーツ発見!
栽培されてるのか野良なのか!?
ちなみにドラゴンフルーツの正体はサボテン。
僕も知ったときは驚いた。

坂を登りきったら、右折して、畑の中を突っ切るような道路へ。

地平線まで農地。
あー。空が広いな♪

こっち側も、それなりのアップダウン。
というか、さんさーらのある城辺(ぐすくべ)地区は、崖の上にあるような地域なので、どこに行ってもアップダウンばっかり。
ん?それがいいんだってばw

最後に福里の信号を右折して城辺線に入り、我が福嶺学区へ。
もうすぐおうち。

今回のコースは約20km。
信号は2つ。
歩行者は何人いたかな??5人いたかどうか??
宮古はランニングにも最適だが、サイクリングにはさらに良いと思う。
なぜなら、ランニングは都会でもそれなりに問題なくやれるが、ロードバイクで都会を走り回るのは、安全性からも快適性からも、かなり問題が多いからだ。
サイクリストのパパさんは、ぜひとも、奥さんの白眼視に耐えて、チャリを持参していただきたいと思うw

ではまた。


「絶好調」は赤信号

ども。さっしー@平常モードですw

今日は少し早起きして、いつものバイク40km全力走。
心拍計のデータなどから推測するに、僕の特性か一般的なことかわからないが、バイクはランに比べると、心肺に負荷をかけにくいようだ。
ぬぉおぉお!!ふんがーーーー!!とペダルをぶん回して、ランの中強度くらいの心拍。
とはいえ、未熟なバイク筋が悲鳴を上げるので、高強度まではとても追い込めない。
僕の場合、バイク40km全力は、ランの10kmペース走(80%くらい?)に相当するだろうか。
心臓の方は毎日続けても全然へっちゃらなのだが、そろそろバイク筋は休みたがっているようだw

さて、少し早起きした理由は、整形外科のリハビリを予約していたから。
先日、足底筋膜炎の診断を受けて、回復を早め、再発を防止するためのリハビリの予約をしていたのだ。
理学療法士さんとおしゃべりしながら、柔軟性のチェックやら問題箇所の推定やら・・・
わかってるつもりだったことを確認したり、知らなかったことを教えてもらったり、なかなか良い時間であった。
今回の故障の引き金は、単純にオーバーワーク、足底筋膜の限界を超えてしまったことだが、根本原因は、足首周辺の硬直にあったようだ。
足首が硬いのは薄々気付いていたのだが、「まぁいいや、走るのに支障は感じないし、深刻な問題じゃないだろ」と軽視していた。
結局、違反切符を切られて免停になった気分だw

振り返って見ると、9月半ばごろから、だましだましで練習していたのだが、自己診断で故障認定を出したのが10月の頭頃。
レースの約1ヶ月前。

今年の5月、石垣島ウルトラマラソンのときも、一ヶ月前に同様に体調を崩した。
あのときは、気管が荒れて咳が止まらなくなり、ランもバイクもできなくなった。
体調を崩す直前、絶好調だった。
「こりゃマジで優勝狙えるんじゃね♪」
とか思って、さらに追い込んだ。挙げ句のことだった。
なんとか持ち直して、最低限のコンディションを作ってレースに臨み、3位で入賞。
最大目標には届かなかったが、なんとか意地を見せた感じだった。

今回も、故障直前、絶好調だった。
暑い中、自己ベストが出る。
涼しくなったら、更に伸びること請け合い。
まだまだイケるぞ!!!と、その挙げ句。
学習しろよなーー(苦笑
否、やっと学習した!!
「絶好調」は勝負レースまで取っておけ!!
レースより前に「絶好調」がやってきたら赤信号!
「好調」くらいまで落として、体をリセットするべし!
追い込んでいく練習はチキンレースだ。
一瞬ブレーキを踏み遅れたら、それだけでクラッシュ。
「絶好調」は、ブレーキを踏む最後のチャンスなのかもしれない。

ついでに。
怪我をすると落胆するのは避けられないが、多くのことを学べる。
カラダというのは実によくできた精密機械で、全身が細かく連動している。
ある箇所が不調だと、別の箇所がそれを補おうとして、さらにムリを続けた結果、補おうとした箇所が先に故障したりする。
だから、プロのアスリートにはプロのトレーナーやコーチが付くのだろう。
多分、レーサーにメカニックが付くのと同じだ。
だが僕らアマチュアは、ひとりで両方をやらなければならない。
その意味では、プロよりシビアでもあると思う。
今回の件だって、専属コーチがいたら、代わりにブレーキを踏んでくれたかもしれないし。

ま、ないものねだりをしても仕方ない。
ともかく、絶好調のときも、故障したときも思うのだが・・・・
カラダというのは、神様がくれた最高のオモチャだな!!
決して飽きないオモチャというのは他にないと思う。
丁寧に扱えば最高のパートナーになるし、ないがしろにすれば、最悪のお荷物になる。
自分のカラダと真剣に向き合う人は誰でもアスリートだと思う。
走るようになって約8年。
やればやるほど、楽しみは広がり、謎は深まる。
まだまだ飽きることはなさそうだ。


幸せに生きたいのならば。

ども。さっしーです。

今日は非常に感情的になっている。
なぜそうなのか、そんな犬も食わぬ話は置いておこう。
ただ、せっかくなので、こういう気分でなければ書くのをためらうことを書いてみようと思う。

僕は真剣に生きている人が好きだ。
真面目に、ではない。
真面目という言葉は、元々悪い意味ではないだろうが、僕は「社会のルールを遵守して、他人との協調性を大切にして、多少の嫌なことは自ら引き受けて・・・」というニュアンスを感じる。
真面目に生きるくらいなら死んだほうばマシだ。
では、真剣に生きるとはどういうことか、説明してみたいが、うまくいくか自信がない。

僕の中で、真剣に生きるということは、言い換えれば、「己と己の人生に対して誠実であること」と同義である。
短くすると、「世界に対して誠実であること」となる。
つまり、前提として、
己と己の人生≒世界
という公式があるのだ。

通常、何億年も前から世界が存在し、そのごくごく短い時代に、「自分」というものが生まれて、いずれ死んでいく・・・と考えるが一般的だろう。
が、僕はそうは思わない。
世界は僕が生まれた瞬間、正確には意識に目覚めた瞬間に作られた。
そして、僕の成長(あるいは退化)とともに変化し続け、死ぬと同時に消滅する。
・・・・「俺は神だ!」と言っているように聞こえるだろうか。
それは違う。
これはすべての人間に当てはまることなのだから、僕が神だと言うのなら、人間はすべて神だということになる。
だが、「みんな」のことは置いておこう。
話をシンプルにするため、一人称で語りたい。

物理的な世界はもちろん何億年も前からあっただろう。
だが、世界に意味を与えたのは僕なのだ。
そして、物理的な世界は人間にとってあまり重要なことではない。
世界の意味こそが、人間を人間足らしめているのである。
僕の作った世界には、僕一人しかいない。
なぜなら、ひとそれぞれ、作る世界は違い、似たものはあっても、イコールにはなりえないから。
そういう意味では、人間は完全に孤独なのだ。

この世界に、自分一人しかいないのだとしたら、誰がこの世界を治めるのか。
当然、自分以外にない。
良いこと悪いこと、嬉しいこと悲しいこと、さまざまなことが起こるが、すべてはこの世界を生み出した自分に責任があるのだ。
そうでなければ、異世界の誰かに責任をなすりつけるというのか。
では、責任を持つとはどういうことか。
この世界の創造主は自分であるということを認識すれば十分だ。
自然と、尊厳や誇りが備わってくるだろう。
そしてそれに比例して、自分が創造主であることを、よりはっきりと認識できるようになるはずだ。

だがしかし。
この話には大前提として「自分がいる」ということがある。
世間には(とりわけ日本には)、「自分がいない」という人が多いのではないか。
人の顔色ばかり伺い、自分の意志で進むことを恐れ、そういう同類からヨシヨシしてもらって安心する。
子供時代にそういう時期があるのは仕方なく、必要悪だと思う。
「乗り越える」という経験をするために必要な「壁」なのだ。
だが、大人になってもそうやって、壁を見上げてウロウロしているだけだと、そのうち「自分がいない」のが当たり前になってしまう。
ある意味、その世界は快適だろう。
危険が少ない。嫌われることも少ない。悲しみも少ない。
だが、同じ分だけ、充実感もなく、好かれることもなく、喜びもない。
だいたい、自分がいないということは、喜ぶ自分もいないということだ。

自分がいなければ、誰が世界を治めるのか。
その世界には、生きたものはなく、ただただ虚しく空回りするだけだろう。
だから順序として、まずは自分に目覚め、その後に世界を認識して、それに責任を持つということになる。
誤解されると困るが、いわゆる「自分探し」で東南アジアを旅行したり、被災地でボランティアをするのは全然違う。
あれは一種の逃避だ。
自分探しなんて、間抜けな言葉だ。
自分はここにいる。いなくなったことなんてない。
そのことを認めて受け入れるだけのことだ。

「自分として生きられない」ことの大きな理由の一つが、「他人から嫌われたくない」ということだと思う。
だから何かにつけて、相手が気持ちよくなってくれそうな言動を選ぶ。
そうやって自分が死んでいく。
意味もなく愛想笑いを繰り返す。
そうやって本当の笑顔を忘れていく。
「自分がいない」が当たり前になってしまった人間は嘘くさい。
仮面のような笑顔が気持ち悪い。

だが、冷静に考えてみよう。
「嫌われる」ということはそんなにも恐ろしいことだろうか。
たしかに、学校という名の監獄のなかでは、命にかかわることかもしれない。
囚人というのは、自分が人間扱いされていないものだから、弱者に対していくらでも残酷になれる。
狭い監獄の中で、大勢の囚人たちから嬲り殺しにされないためには、「嫌われない」というのは重要なスキルだ。
(最強のスキルは「脱獄」w)
しかし、我々は大人になった。
監獄は過去になり、自分の世界を生きることができる。
いったいいつまで!!囚人根性を連れて歩くつもりか!!
その囚人根性こそが、社会に蔓延する腐敗臭だ!!
自分を嫌う人間からは、自ら距離を置けば良い。
第一、たいていの「嫌い」なんて、せいぜい「ウザい」くらいの、ぬるま湯のような半端感情でしかない。
身を焦がすような憎悪を長期間に渡って持ち続けるには莫大なエネルギーが必要で、よほどの経験と精神力がなければ、維持することなどできやしない。
「俺のことを嫌いなヤツは、俺も嫌い」
くらいに切って捨てれば、そうそう怖がるほどのことではないのだ。

幼い頃、まだ自分を失うよりも前、我々はやはり「自分」だった。
相手の顔色をみて自分の意思を隠すことなど知らなかった。
無邪気な時期だ。
あのころ、やはり世界の中心に自分がいた。
だが、世界と自分が完全に融合しているので、世界を認識できなかった。
一度自分を失い、そして取り戻すことは、世界と自分の両方を認識するための儀式なのかもしれない。
世界と自分がなければ、人生は虚しい。

僕の敬愛する坂爪さんの言葉を引用してみたい。

    自分の『嫌い』を表明する。それは、自分の『好き』を表明することと同じくらい大切なことだ。嫌い(NO)を表明する瞬間は勇気がいる。もしかしたら「このまま相手との関係性が途切れるかもしれない」という恐れも湧く。しかし、多くの場合、自分の嫌いを表明してもコミュニケーションは続く。恐怖心から全身が小刻みに震えることもあるが、コミュニケーションは終わらない。言いたいことを言った自分に対する信頼感も生まれるし、空間全体に爽快感の風も吹く。逆に、嫌われないために好かれよう好かれようと思って生きているひとほど、その嘘臭さは周囲にモロバレとなり、結果的に嫌われることは多い。そもそもで、嫌われないように生きる人生は疲れる。疲れを覚えるということは、何かしら『やり方を間違っている』のだと思う。
    いばや通信より

幸せになりたければ、真剣に生きてください。
真剣に生きるためには、まずは自分を取り戻してください。

ではまた。


機材競技という誤解

ども。さっしーです。

走れないので自転車ばかり乗っていて、いろんなことに気づくようになった。
よく、「自転車は機材競技」といわれるが、実際に結構カネがかかる。
少なくともランの何倍も。
トライアスロンを一度やめようと思ったのも、その関係で、
「次に出場するならもっと勝ちたい」
「そのためには、トライアスロンバイクを買いたい」
「少なくともカーボンホイールくらいは!」
「でもほんとに好きなのはランだから、そんな多大なコストを掛けてやるほどのことはない」
という感じだった。
もちろん、練習時間をランに集中したかったのが一番大きいのだが。

つまるところ、機材競技という言葉を、「速くなるためには、いい機材をそろえなきゃいけない」というふうに解釈してたわけだな。
でもここのところバイクに乗っていて、これが間違っていたと気付いた。
機材競技とは、機材を使いこなすテクニックを競う競技という意味ではなかろうか。
ランニングは、カラダと相手(地面)の間に、シューズくらいしかないので、いかにカラダを鍛え、上手に使うかという競技だ。
が、バイクはその間にマシンがある。
このマシンを使いこなすテクニックが重要ということだ。

そう思うと、ほしい機材も変わってくる。
目先のパフォーマンスをカネで買うような機材よりも、テクニックの向上を助けるような機材を先に揃えるべきだと思うようになった。
それは多分、安全性と快適性、効果測定ツールだと思う。
先日、タイヤをチューブレスに変えて、メンテナンスをがんばったのは、安全性と快適性のため。
快適であれば、不要な疲れをためにくいので、練習頻度を上げられる。
レース一発勝負で、「この機材を買えば、1分あたりを1万円で買ったことになるので云々」というのはバカバカしいと思う。
(あくまで僕の主観、トップアスリートの方、そういう楽しみ方をする方を非難するつもりじゃないです)

今回はサドルを変えてみた。
長距離を乗ればオシリが痛くなり、ペースが落ちてフォームも乱れがち。
自分に合うサドルであれば、それがかなり軽減されるはずなのだ。
実は恥ずかしながら、真剣にサドルを探したのは初めて。
テクニック向上のためには、真っ先に検討するべきだったのに。

フィジーク ロンディネ


このサドルは、定番メーカー、フィジークの中でも特に安い(6000円台)、長距離向けコンフォートサドル。
この際、ハイスピードモデルとか、トッププロ御用達とか、そういう路線を捨てて、身の丈にあったサドルを選ぶことに徹した。

フィジークのロゴがかっこいい♪


これで100kmを全力で走ってみたところ・・・オシリが痛くない!!
いや、まぁ多少は痛いけど、劇的に改善だ!
トライアスロンで157kmも走ったら、カーボンホイールよりもタイム向上が望めるんじゃないの???
100kmのタイムは、3時間と10分ちょいの自己ベスト。
(2回の休憩を除く)

テクニックとしては、常時90以上のケイデンス、ペダリングの滑らかさ、上体の安定などを意識している。
ケイデンスはいつのまにか、100以上でも苦労せずに回せるようになった。
皮肉なことに、今までで一番、「バイクやってる感」があるw
怪我の功名とはよく言ったものだ。

もし本気でバイク競技に打ち込むなら、効果測定ツールとして、ぜひともパワーメーターを導入したいところだが・・・
最低でも5万くらいはかかりそう↓↓
ま、これはまたいつの日か、だな。
そうでなくても、来年のトライアスロン走るなら、ウェットスーツ(破れたので捨てた)、エアロバー(錆びてガタガタになって捨てた)は新調しなきゃならんし。

ちなみに以前のサドルは、バイク購入後すぐに、純正からなんとなく好奇心で交換してみた、Amazonで3000円の商品。

「トライアスロンは前傾で乗るので、尿道を圧迫しない穴あきモデルがよい」
というのを鵜呑みにして買ったw
尿道は知らんけど、とにかく坐骨が痛かった!

コケたときに破れて、そのまま・・・w

まだしばらくバイク生活が続きそう。
レースが近づいてきて落ち着かないけど、バイクも楽しくて複雑な気分・・・

ではまた。


人生、勝負しないと!

ども。さっしーです。

宿屋を始めて3年ちょいが過ぎ、多くのゲストさんたちとゆんたくしてきたのだが、そんな中で決まって聞かれる話がある。
宮古移住に関するあれこれだ。
あまりに多く聞かれるので、いつの間にか、自分の中で回答が定型文になってしまった。
例えば・・・

「なぜ移住先を宮古にしたんですか?」
—–沖縄離島移住がしたかったんです。
沖縄離島の中で、高校と大病院があるのは、おおよそ宮古と石垣の二択です。
石垣より宮古が気に入っただけです。

「不安はありませんでしたか?」
—–ありましたよー、失敗したら困るなーとか。
でも、人生は勝負なので。
やりたいことやらないと。

「人生の一大決心ですよね!」
—–そうでもないですけどね。
行き当たりばったりに生きてきたので。

「夢を叶えましたね!」
—–夢とかよくわかんないす。

ぶっちゃけて言いましょう。
「みんな!!もっと勝負しようぜ!!」

人生は勝負そのものなのだ。
好むと好まざるとにかかわらず、誰もがその土俵に乗せられているのだ。
何でもいい、自分が好きなことに没頭して打ち込めば、それだけで人生は輝く。
やりたいことに打ち込んで、やりたくないことを極力遠ざける。
シンプルなことなのだが、世間体を気遣い、失敗を恐れ、無難、無難に生きることに慣れてしまった人が多すぎるのだ。
勝負に出た上での失敗は、ときに致命傷になるかもしれないが、たいていは人生の糧となり、次の勝負を有利にしてくれるだろう。
勝負から逃げることで得た安心は、何も生み出さず、ただ人生の終末に向かって時間を浪費するだけだ。

最近、僕と同じ歳のある方と一緒に酒を飲みながらおしゃべりしたときのこと。
彼の話したことはおおよそ、
「僕は挑戦することなく40歳を迎えてしまった。
勝負を先送りし、選択を保留してきた。
でもわかってきたのだけれど、保留するという選択を繰り返すことで、勝負することなく負けてきたんですね」
ということだった。
40歳前後というのは、いろいろ考えが変わる年頃なのかもしれない。
自分自身で気付いた彼は、きっとあたらしい生き方を模索していくのだと思う。

幸不幸というのはつまるところ「落差」なのだ。
旨いものばかり四六時中喰っていたら、何を食べても感動はあるまい。
空腹こそが、食事に感動を与えるのだ。
勝負を保留し続ける人生、必勝の勝負しか打たない人生(そんなものを勝負と呼ぶならだが)、そこには、勝利、達成の快感はないと思う。
負けて、打ちのめされて、どん底を這い回る経験も、人生の一部。
怖がることはない、失うものなど、この生命くらいしかないのだから。

同様に、我が子どもたちにも、勝負と冒険をさせたいと思う。
否、放っておくだけで、子どもたちは勝負と冒険を志すものだと思う。
鳥かごにいれて、安全安心に育てていきたい気持ちもよくわかるが、それは残酷だ。
奈落の淵に立って暗黒を覗き込んで初めてわかることがたくさんある。
そのまま転落して、戻ってこれない子もいるだろう。
だがそれでも、鳥かごに閉じ込めておくよりはマシというものだ。
生きるということは、元来危険なものなのだ。
子供の人生から危険を完全に除去することは、子供を去勢してしまうのと同じだと思う。

さて、蛇足だが、宿では普段、僕はここまでハッキリとは言わない。
本音というのは人を傷つけるから。
楽しむべきおしゃべりで、ゲストさんの旅行を台無しにしては、宿屋として失格だ。
でもそれを承知で本音を聞きたいという方には話すし、自分と同じ勝負師の匂いのする方にも、もちろん話す。
ついでに言うと、このブログは、僕の頭の中を覗いてみたいという物好きな方だけが読んでいるという認識で、本音を書くことにしている。
僕自身、40歳を迎えて、変わってきたのかもしれない。
今までは「黙っていれば嫌われない」という感覚がまだ根強かった。
嫌われないということは、同時に、強く好かれることもないということでもある。
最近は、「少々嫌われることが増えても、もっと自分を前面に出して堂々と生きたい」という感情が強くなってきた気がする。
ん??頑固親父になりつつあるってことかw


僕なりのバイク本気メンテ!

ども。さっしーです。
今日も曇天の宮古島、なんとか午前中は持ちこたえ、無事に40kmサイクリング完了。
ふぅ。チャリは天候との戦いだなー
昨日装着したチューブレスはやっぱり快適で、強風の中アベ31km/h。
上出来、ランのできないストレスをチャリにぶつけてるなw

ちょっと時間がありそうだったので、サイクリングのあと、そのままバイクメンテを。
今年はトライアスロンに出なかったのもあって、メンテは超ひさしぶり。
最後にちゃんとメンテしたのがいつだったか、思い出せない・・・

スプロケは真っ黒。

フレームは泥だらけ。

裏返してみてドン引き。
フレームのBB周辺、アルミが膨張したのか、塗装がもうボロボロ。
あと何年もつんだろ・・・

まずはフレームの泥を落とし、固く絞ったタオルで拭き上げ。
これだけでもきれいに見えるし、なんか愛着が蘇ってくる。
散々放置してゴメンよ、マイチャリ。

そして、一番大事な、チェーンや駆動部の清掃。
走行性能に一番影響する、重要なメンテなのだが、手間と時間がかかる上、油まみれになるのが面倒で、ついつい先送りしてしまうのだ。
マニュアル本などでは、ディグリーザー(スプレー)で油汚れを落とせ、と書いてあるのだが、油汚れのたまるチェーンやスプロケに使っていると、あっという間に一本使い切ってしまうのだな。

ディグリーザー。高くはないが、ガンガン減る。

そこで今回、知り合いのバイク乗りに教えてもらった「灯油で洗うと早い」というネタを試してみた。

テキトーな入れ物に灯油をためて、チェーンをお風呂に入れながら、歯ブラシでこする。
透明だった灯油はあっという間に真っ黒。
ディグリーザー吹き付けても埒が明かないわけだわ。

ちなみに、灯油は、なんとなく倉庫にあった。
田舎ではよくある話。

フロントギアやプーリーは、取り外すのが大変なので、歯ブラシを灯油で濡らしつつ、こすり洗い。
気持ちよく汚れが落ちる。
汚れが落ちたら、ディグリーザースプレーで灯油を洗い流す。

さて、いよいよ今回のメインイベント。
この真っ黒なスプロケを解体して、灯油の風呂に入れるのだ!
この形状故に、溜まる汚れの量もすごく、メンテのたびに難儀してきた。
今回初めて、解体洗浄に挑戦だ!
バイクパーツは分解、組み立てに専用工具が必要な場合が多く、スプロケの解体には・・・

ボルトっぽいのと

チェーンっぽいのが必須。

5年以上前に購入した、ロードバイク専用工具キット、半分以上の工具が一度も使われずに眠っていたのだが、ついに日の目を見る日が来たw

ボルトっぽいのスプロケに差し込み、チェーンっぽいのでスプロケを固定してモンキーレンチで回す・・・
案外簡単に外れた。
外したギアを一つずつ灯油で洗い、同様にディグリーザー。

もっとバラバラになると思ってたが、10枚のギアのうち7枚がひとつの塊だったw
洗浄前の写真を撮ろうと思ったが、あまりに手が真っ黒になってて、カメラに触れず。

そして再びホイールに戻す。
うっわー、超キレイぢゃんか♪

ディグリーザーが乾くのを待って注油して、バラしたパーツを組み直して完成!
うーむ。こうして写真にすると、キレイになった感がでないなw
フレームに若干の不安があるが、あと5年位はがんばってもらいたい。

さて、使用済みの灯油と油まみれのタオルをどうしようか。
スーパー可燃物なので、一般ゴミに出していいかわからぬ。
こういうときは田舎の特権だ。

燃やしちゃえw
サイクリングとメンテで3時間位かかって、さすがに疲れた。
焚き火を眺めながら、ビールで休憩☆

足の怪我は少なく見積もってもあと1週間はかかるはず。
あー。チャリを手放さなかったのは正解だなー♪


チューブレスデビューしました♪

ども。さっしー@案外重症です・・・
足底筋膜炎の対処療法として、第一に安静、第二に消炎鎮痛剤の内服、という記事をみて、ロキソニンを飲み始めた。
もともとは薬も医者も嫌いなのだが、競技者としての意地が優先w

昨日は雨でバイクも乗れず、もちろん走ることもできず、自宅謹慎でモヤモヤしていたのだが、いいタイミングでAmazonからブツが届いた。
タイヤだ。
今使っているホイールは、アルテグラの多分一世代前の型で(型番忘れた)、チューブレス対応とのことだった。
チューブレスタイヤは、耐パンク性が高く、転がり抵抗が少なく、乗り心地も良いということで、かなり興味はあったのだが・・・
非常に「硬い」ため、着脱に苦労するという話だ。
僕は恥ずかしながら、タイヤ交換が苦手だ。
ふつーのチューブドクリンチャーでもひーひーいって、タイヤレバーを何本も折って、出先でのパンクのときなど、ミニボンベを全部無駄にして、マナにレスキューを頼んだほど。
もうトラウマに近いね!
そんなだから、チューブレスは敬遠してきたのだ。

がしかし。
最後のタイヤ交換はもう一年以上も前。
(もしかしたら2年近い?)
外見こそ致命傷はないものの、宮古の灼熱のアスファルトを走り、高温多湿の倉庫で保管してきたタイヤが、劣化していないはずはない。
今こそ!トラウマを乗り越えて、新世界に乗り出すのだ!

届いたチューブレスタイヤは、「IRC tire IRC FORMULA PRO TUBELESS RBCC 190130 HP-92 700X25c ブラック」
・・・暗号だな、ほとんど。
開けてみると、今まで使っていたチューブ用タイヤとそんなに変わらない外観。
早速作業に入ろう。
まずは古いタイヤをホイールから外すのだが、すでにここで一苦労。
ホント下手やなー自分・・・
外したタイヤを見て冷や汗・・・

チューブとタイヤが、完全に癒着して、引っ張っても簡単には剥がれない。
(フツーはするっと抜ける)
怖っ!めちゃめちゃ劣化しているってことじゃないの??
惨劇が起きる前に間に合ってよかったわ・・・

チューブ入りタイヤは、装着の際に、チューブがタイヤのビードとリムに噛んでしまって、空気を入れた途端パンクするという悲劇がよくある。
(もちろん、下手な人に限り)
チューブレスはそれがない点がありがたい。
が、元来チューブに付いているバルブ(空気いれるとこね)がないわけで、代わりに別売りのバルブを取り付ける必要がある。
多くの場合、チューブレス対応ホイールを購入したときについてくるものらしいが・・・ついてなかったのか無くしたのか、2年以上も前のことは覚えていない。
とにかく手元にないので、互換バルブも同時注文しておいた。

ホイールにバルブを差し込み、いよいよタイヤ装着。

説明書によると、石鹸水と霧吹きが必要らしいので、それも用意。

ホイールの、タイヤと接すると思われる場所にたっぷり石鹸水を吹き付けておく。
具体的なタイヤ装着手順やコツは、上手に解説してるサイトやブログがたくさんあるので割愛。

まぁ、、たしかにちょっと硬いが、チューブ用に比べて極端に硬いということもない。
心配していた最後のトドメも、同時注文してあった「IRC専用タイヤレバー」を使ったら、拍子抜けするほどあっさりと。

ここから空気入れに入るわけだが、ここでも「空気が漏れる」というトラブルが頻発するとかしないとか。
空気を入れ始めると・・・
パキン、パキン、とリムとビードが噛み合う音が。
おお。順調なんじゃないの??
そのまま6気圧まで入れて、タイヤを観察。
どこも違和感なく、空気漏れの音もなし。
念の為、タイヤとホイールの接点やバルブなど、空気漏れの可能性がある場所に石鹸水を吹き付けて観察してみたが、大丈夫なようだ。
なんだよー。こんな簡単なら、さっさとチューブレスにするんだったw
チューブレス定番のシーラント剤(自動パンク補修&空気漏れ予防)は、到着次第注入する予定。

今回、タイヤの幅も、2mm太いものに買えてみた。

見た目はそう変わらない。
(左が新タイヤ)
細い方が速い!という時代は終わり、やや太めがトレンドらしい。
詳しい知識はないが、僕の専門はランなので、細かいことは言わずに従うことにしたw

さて、想定外に早く作業が終わったのと、絶望的だった今日の天気が案外もちそうなことで、急遽試乗に出かけることにした。

最初は「いきなり外れたりしないだろうな」とか、おっかなびっくりだったが、大丈夫そうなので、それなりに回してみた。
なんか・・・静かだ。
静かということは、音になっていたエネルギーが推進力になっているということで、非常に結構。
以前より、踏んだ分がスムーズに加速している気がするぞ。
後半は調子に乗って全力走。
強風にもかかわらず、かなりの好タイムだ。
気のせいかもしれないが、オシリへのダメージも少ない気がする。

いいね!チューブレス!!
気に入った!!
次のトライアスロン、エントリーしちゃおっかな♪


悟りのカケラ

ども。さっしー@謹慎中です・・・
今日は朝からシトシト冷たい雨が降り、ああ、夏が終わったなぁと感じる。
同時に、今日走ったら、10kmベスト出せそうだなー、とも。
が、先日も書いたとおり、今走れば怪我が悪化すること間違いなし。
ここ一週間、憂さ晴らしに大活躍だったチャリンコも、雨だけはムリ。
(滑って危険、水抜きなどのメンテが面倒)
ああ、これは完全に自宅謹慎だ。罰ゲームだ・・・w

さて、こんな話を聞いたことがあるだろうか。
「ランナーは比較的、神に出会う可能性が高い」
僕は特定の宗教に属してはいないが、この話は実体験として、本当だと思う。
このブログでもよく書いている気がするが、走ることに慣れてくると、「走っているのに走っていない瞬間」が時々訪れるのだ。
走っている自分を、斜め上方から眺めているような感じがする。
コイツがんばってるなーってw
きっとこの感覚の先に「神」がいるんじゃないだろうか、と。

ちなみにこの「神」はいわゆる神様、キリスト様、ゼウス様という意味ではない。

オレはお前たちが”世界”と呼ぶ存在 
あるいは”宇宙” あるいは”神” あるいは”真理”
あるいは”全” あるいは”一”
そして オレは”おまえ”だ
(鋼の錬金術師より)

あれは3週間ほど前、9月も半ばになり、宮古島も少しずつ秋めいてきていたが、あの日は無風で暑さがぶり返した真夏日だった。
よりによってこんな日に鬼メニューを組んでしまった自分を呪ったが・・・まぁよくあることだw
メニューは200mの坂を上りで全力ダッシュ、下りをジョグ。
5本ごとに小休止を入れて、6セット・・・つまり30本。
いつもは坂の下に500mlの飲み水を置いておくのだが、この日は特に本数が多い上に暑いので、1500mlのペットボトルを持参していた。
残りの本数を数えながら走ると、本当に気が滅入るので、前半はただ無心で走る。
1セット走っては水を飲み、数分間座ったりして呼吸と気持ちを整える。

5セットくらい終わったときだったか、暑さで朦朧とするので、ぬるくなった水を飲み、頭にも水をかけて、座って空を眺めた。
真っ青な空には雲がほとんどない。
紺色の海がはるか彼方まで続き、空と出会って水平線になっている。
さとうきび畑の向こう側はこんもりした丘で、熱帯の木々が茂り、その上を小鳥が何羽か飛びながらさえずっている。
全身から吹き出した汗が、アスファルトに大きなシミを作っている。
疲れ切っているが、空気がうまい。
静かだ。
無音。
鳥のさえずりは無音の一部のように思える。
そのとき突然、自分は世界だった。
空であり、海であった。
疲労も不安もなく、躁も鬱もない。
ただ静かな安らぎがあり、それでいてエネルギーに満ちている。
自分が空を見ているのか、空が自分を見ているのかよくわからない。
自分は世界の一部であり、世界は自分の一部であり、世界と自分はイコールなのだ。
ああ・・・もしかしてこれが・・・
と思った瞬間、僕は再び体の中にいた。
あれは、生まれた前にいた場所、死んでからゆく場所・・・そんな風に感じた。

あれほどリアルに「それ」を感じたのはその時以来まだない。
だが、あのときから、多くの不安や恐怖が消えたような気がする。
死んで世界とひとつになるのが、とてもステキなことに思えたからだろうか。
「死」は人間が作り出した概念であり、人間の根源的な恐怖そのものだ。
死の恐怖を克服できれば、人生に怖いものなどないだろう。
(無鉄砲や死にたがりと同一視されると困るが、長くなるので割愛)
「生まれる前」に思いを馳せて恐怖に震える人はいないのだから、本来、「死んだあと」も心配には及ばないはずだ。
理屈ではわかっていたが、百聞は一見にしかず、「あの瞬間」はそれを「見せて」くれたように思う。

今でも死ぬのは怖い。
だがそれは本能であり、悪いことではない。
動物たちは天敵から一目散に逃げ、エサを食べられるときにたくさん食べる。
それが生きる力であり、人間も動物としては同じだ。
だが人間は、死ぬことよりもむしろ、死という概念を恐れる。
死ぬことは、生命活動が終わることであり、概念としての死は、自己の終わり、自我の終わりだと思う。
だから多くの宗教が、天国地獄、来世や輪廻を語るのは、人間が自己の終わりと向き合うことをどれだけ恐れているかを暗示している。
体が滅びたあとも、自己は続くというわけだ。
だから死後に自分の名が残るかを気にして、どこの墓に入るかに気を煩わせる。
オレが死んだら、妻子は食っていけるだろうか。
そういうことを気にしすぎて、リアルの生を台無しにしてゆく。
しょーもない。
自己は終わってしまってよいのだ!
その後のことに気を病むのは、生まれて来る前のことを心配しているのと同じだ!
おしまい!自分なんて最初からいなかったということでいいのだ。
死ぬのは怖いが、死そのものは怖くない!!

走り続けていれば、また「あれ」を見られることがあるだろう。
あ、でも例のその日は、さすがに疲労困憊して、体調を崩しかけたんだった。
もしかして、瀕死の状態がカギだったりしてw
てことは臨死体験に近い??
まぁいいや、それはどっちでも。
あーあ、早くまた走りたいなぁ。


壊れたらまぁそのときか・・・

ども。さっしー@足底筋膜炎です↓↓

いやはや、やってしまったな・・・
2~3週間前から不穏だったのを、だましだまし練習してきたのだが、先週の鬼メニュー(1kmインターバル10本)がトドメになって、激痛化。
踵と土踏まずの間あたりが痛く、特に寝起きは、最初の一歩にうめき声が漏れるほど。
こりゃもう騙せないと思って、この1週間はチャリ練習、心臓だけは退化させないように努力した。
ようやく、日常生活では痛みを感じなくなった(踵周辺を圧迫すると鈍痛)ので、恐る恐るジョグに出てみたが・・・5kmくらいで違和感。
帰ってシャワー浴びたあとは・・・「おかえりなさい、いつもの鈍痛さん」
やれやれ、レースまであと3週間というのに。

もちろん、少々落胆してはいるが、内心どこか笑えるんだな、これが。
yomeに白い目で見られても、仲間からキチガイ扱いされても、ひたすら走りまくったこの夏のトレーニングが、結果に結びつかないかもしれないというのに。
はっはっは!やりすぎて壊したか!滑稽滑稽!!
別に悔いはない。
僕が勝手にライバルと目している連中はみんな、おそらくだが、故障スレスレで練習を重ねているヤツばかりだと思う。

「健康が一番」
「レースは楽しまなきゃ!」
「怪我したら台無し!」
というのが世間の相場だし、それを悪いとは言わないが、そういう人々と競うつもりはないので。

「レースは勝負!」
「勝負は勝ってなんぼ」
「勝つには人並み以上であるのが最低条件」
というのが僕の信条なので、ヌルい練習して去年と同じタイム出してニコニコしてるくらいなら、やりすぎて怪我してリタイアの方が潔いのだw

別の側面から見ると、怪我というのは、ひとつの罰則であり、教訓であり、上のステージへの試練でもあると思う。
罰則というはつまり、違和感や痛みという「体からの警告」にうまく対処できなかったことの結果という意味だ。
いきなり走れなくなるような怪我をすることは稀で、今回のように違和感を感じていながら、だましだまし練習した結果である場合が多い。
が、多少の違和感でいちいち休養、安静と言っていたら、そもそも「人並み以上」の練習はできない。
それに、休養は対処療法であり、違和感の原因を突き止めなければ、遅かれ早かれぶり返すのだ。
体の特定箇所を故障するということは、特定の箇所に負担が集中する走り方をしているよ、というサインであり、つまるところ「フォームが悪いよ」ということだと思う。
フォームが悪くても、スピードが遅いうちは、体の調整能力が上回り、症状は出ないことが多い。
スピードが上がるほどに、ごまかしはきかなくなる。

今回の故障で思い当たるフシは、楽にストライドを伸ばす方法を模索して、足の振り出しを意識するようになったこと。
結果としてスピードと引き換えに足裏への負担が増大したのだと思う。
が、足を振り出す動作自体が悪かったのかというと、そうとも限らないと思っている。
足の振り出しが原因だと仮定すると、そのことによって着地にムリが生じて、足裏に負担がかかったというのがわかりやすい理屈だ。
が、症状の出た場所は、結果であり、原因となる場所や動作は他にあることが多い。
僕は今回、「足首周辺の柔軟性不足」が一番の原因ではないかと考察した。
低速、短ストライドでは問題がなかったのが、高速、長ストライドを1時間以上維持するには、足首の柔軟性が足りなかった、結果としてその周辺で一番壊れやすい場所に症状が出た、と。
もちろん、確証はない。
専属トレーナーがいないアマチュアは、診断と考察と検証を自力でやるしかないのだ。

こうして、怪我の考察と検証、対策がもし成功すれば、次のステージに大きく飛躍したことになる。
もう同じ怪我はしないはず。
もう安心してストライドを伸ばせるはず。
だから笑えるのかな。
あー、それにしても凹むわw