Category雑記

There is no spoon

ここがマトリックスの中であれば、文字通りだ。
シンプルだ。
スプーンは無い。
あるのは、スプーンを定義するプログラムだ。
プログラムに干渉できるのであれば、スプーンを瞬時にナイフに変えることもできるだろう。

だが、リアルではもう少し複雑だ。
スプーンは確かにあるだろう。
だが、あなたが思っているような在り方ではない。
スプーンは確かにあるが、その在り方はあなたのマインドが定義している。

僕の肉体は確かにここにあるだろう。
だが、その定義はマインドがしている。
この肉体は車より速く走ることはできないだろう。
だが、今自分が信じているよりは、ずっと速く、ずっと長く走れるはずだ。
マインドを上書きすることさえできれば・・・


ニューシューズ第二弾!!

・・・というわけで、待ちに待ったシューズが届いた。
Yes, it’s Japanese shoes, GETA!!

さて、突っ込みどころはあると思うけれど、少し前置きを。

僕は宮古に来てから、一年の大半を400円のビーサンで過ごしていた。
涼しいし、汚れてもいいし、そのまま海にも入れる。
見た目はしょぼいが、けっこー快適なのだ。
逆に面白くない点は、同じサンダル履いてる人がゴマンといること、濡れたコンクリの上ではスケートのように滑ること。

そして、Born to Runとか読んで、裸足ランニングとかビブラムとかを取り入れるようになって思ったのが、
「普段の歩くという行為を、トレーニングにできないか」
ということ。
それで考案したのが、これ・・・

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400円サンダル・改!!

常時つま先立ちww
ここ1年くらい使ったが、それなりに面白い。
足底筋膜がけっこー強くなったような。気がする。
ランのパフォーマンスにプラスかどうかは不明w

ただ、どうにも貧乏くさいww
友達に説明を求められるwww

ちょっと飽きてきたし、何かもっとオシャレで個性があって、トレーニングにもなり、安上がりな履き物はないだろうか。
そう、例えば下駄とか・・・
そういえば、アニメなんかで一本歯の下駄が出てくるけど、あれなんか体幹トレーニングになりそうじゃないか。
このご時世、ネット通販で誰かが売ってるはず。

寝入り際、布団の中でそんなことを思いつき、早速翌日調べてみたら・・・
なんと、一本歯の下駄をトレーニングに使うというのは、すでに一部ではブームになってるそうじゃないか。
ショップもいくつもある。
これは買いだな~♪

・・・というわけ。

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早速履いてみる。
ネットでは「最初は壁に手をついて・・」とか、「室内で練習して・・・」とか書いてあったけど、意外とフツーに歩けるぞ。

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立ち止まるのはちょっと難しい。
動いている方が安定する。
竹馬とかと同じかな。

これを履いて近所をぐるっと散歩してきた。
身長も12cmほど高くなるので、キモチイイ。
近所のボーチラ(悪ガキ)が、
「なんだそのサンダル!!なんでそんなサンダル履いてるか!」
と叫んできた。
「うるせーな、どんなサンダル履いたって勝手だろ」
と答えたら、後ろから体当たりしてきやがった。
あぶねぇ・・・・w

それにしてもなかなか楽しい。
これは「履く乗物」だな。
これで歩くことがスポーツだ。
しばらく外出が楽しくなりそうだ。

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目立つ履き物コレクション♪


ブログタイトル変えました

ブログタイトルを変えてみた。
旧タイトル(南の島をただただ走る)では、どうも好きな事を書けないように感じていたからだ。
なんというか、競技やトレーニング以外のネタが書きにくい。
所詮ブログ、ましてたかがタイトルなんだから、別にこだわる必要はないのだけれど、しっくりこないものは仕方ない。

ブログ・・・いや、インターネット日記と呼ばれていた時代から、すでに13年くらいこうしてネット上で文章を書いているが、思えばいつも自嘲気味なタイトルをつけていた。
「自分なんて大した人間じゃないっすから」みたいな雰囲気で。
でもなんかそれも飽きた。
謙遜するというのは、自分の謙虚さを他人にアピールしているだけであって、それによって自分の本性を向上させるわけではない。

先日、宿のゲストさんといつものようにあれこれおしゃべりをしていて、ちょっと哲学的な話になったとき、「お坊さんみたいですね~」と言われた。
そうか。そうなのかもしれない。
僕の本質は「僧」なのかもしれない。
僧という言葉は仏教色が強いが、僕が言うのは探求者という意味でだ。
(仏教は本来、仏陀の教えに従って真理に目覚めることを目的としている)
研究と実践を並行して行い、真理を追究する。
エライ人がこう言ったから、経典にこう書いてあるから、ではない。
人生のすべてが実験であり、検証であり、考察だ。
他人から知識を分けてもらうことはもちろんあるが、実験するのはあくまでも自分自身だ。

禅、とは何であるか。
目を閉じて座り、沈思黙想したりマントラを唱えたりすること、ではない。
禅とは洞察することだ。
常に注意深くあることだ。
何が本物で何が偽物か。
洞察が深まれば、「自分と自分以外」の境界線はだんだん曖昧になってくる。
その境界線が偽物だということが見えてくるからだ。
究極的には、自分と世界は完全に一体となり、そこが禅のゴールだ。

禅は「行住臥座」の行であるという。
人間の姿勢は常に、行(歩く)、住(立つ)、臥(寝る)、座(座る)のどれかに属している。
そして、そのいずれにおいても、注意深く洞察を続けていることが、禅では要求されるということだ。
今のところ、僕にはそれだけの注意深さも洞察力もない。
だが、走っている間だけは、いつも禅的でありたいと思っている。
それなりの経験のあるランナーなら同意してくれると思うが、本当に自分が上手く走れているとき、「自分は走っていない」のだ。
全身の筋肉と心臓が心地よいリズムを刻み、景色は後ろに流れ、頭は冴え渡っている。
でも、走っていない。
体は走っている。
自分が走っているのではない。
走っている自分を見ている、という感覚に近い。
そういうときは雑念も非常に少ない。
僕にとっては、走っているときが最も禅的な時間であり、真理に近づく瞬間のようにも思える。

僕はトレーニングを積んで、ウルトラマラソンやフルマラソンのレースで表彰台に上がりたいと思っている。
それは俗的なことだ。遊びだ。
だが、遊びと探求は意外と相性が良い。
探求というのは、遊びと同様、快楽の一種だからだ。
全く問題が無い。
ブログタイトルに哲学性を入れたことで、ばらばらだった物がつながった。
走ること。
断酒のこと。
離島移住のこと。
その他いろいろ、話せば長くなること。
そして、こうしてモノを書くということ。
全部僕の探求のネタであり、プロセスなのだ。

今まで以上に好きな事が書けるような気がして、ちょっとうれしい。
皆様には引き続きお付き合いいただければうれしい。


イジメ、学校、親・・・

最近2件ほど、いじめの問題について考える機会があったので、所見を書いてみたい。
「いじめはイケナイ」とか、そういうありきたりな話はそこら中に転がっているのでいいとして、僕が言いたいのは、心理的盲点についてだ。
盲点というのは、自分では気づけない、あるいは気づくのがとても難しいからやっかいだ。
その上、SNSの普及によって、重大な盲点を含んだ感情的な投稿が、そのまま拡散されてしまったりする。
投稿者にもそれに共感、拡散する人たちにもまったく悪意がないのが逆にやっかいで、下手に盲点を指摘するコメントを書いたりすると、誤解されるだけでなく、「アンチ」と勘違いされて攻撃されたりしかねない。
あくまでも僕の独り言としてブログに書いてみることにした。

前置きが長くなった。

◇例題1◇
SNSへの投稿より、要点を箇条書きで。
○投稿者(母親)の子供が学校で酷いイジメにあって不登校になっている。
○子供は、加害者の子供と先生を名指ししている。自殺未遂もあった。
○母親は学校、教育委員会に早急な対応を求めるが、全く誠意ある対応をしてもらえないどころか、問題をもみ消そうとしているようだ。
○新学期に勇気を出して登校するが、やはりイジメは解消されずに再び不登校に。
○学校側は、短期間登校したことは成績には考慮しないと宣告。

多少乱暴に要約したが、特定の問題を扱いたいわけではないので。

この母親は、問題の根幹は学校と加害者児童にあり、学校側と教育委員会で対処するのが最善だと考えていると思われる。
だが、果たしてそうだろうか。
もちろん、問題の発端はイジメ加害者なのは間違いない。
だが、「対策」は家庭が第一だ。
蹂躙されて自分の存在意義を見失ってしまった子供に、もう一度希望を与えることだ。

「そんな学校、いかなくていいからね。
あなたは私の大切な子。
代わりの学校はたくさんあるけど、あなたは一人しかいない。
気持ちが落ち着くまで、気が済むまで、一緒にいてあげるから、怖がらなくていいよ。
元気が出て、また学校に興味が出たら、他の学校にでも転校しましょう。
あの学校には二度と戻らなくていいんだよ。」

子供はこういう言葉をかけて欲しいのだ。
学校は監獄になってしまった。
公開処刑場だ。
中にいるのは敵と猛獣ばかり。
安全を約束してあげる、と敵がいったからといって、処刑場に子供を送り返す??
違うでしょう。

母親は、学校や社会は公正であるべきだ、あって当然だ、と思っているのかもしれない。
その前提が盲点を作る。
社会は公正ではない。
社会のルールやモラルは、「全体の総合利益」を守るために存在しているだけで、個人や弱者を守るようにはできていない。
正確には「全体の総合利益」のためには、ある程度、個人や弱者も保護するのが望ましいというべきか。
なんにせよ、「困ったら助けてもらえる」とは思わない方が良い。

この母親も間接的被害者だ。決して非を責めるつもりはない。
が、子供を助けるのは自分しかいないという意識がなければ、最悪の事態もありうると思う。

◇例題2◇
PTAの研修会でのこと。
素晴らしい公演だったのだが、内容を書くとすごく長くなるので、僕が違和感を感じたことについてだけ。
そのパネリストは、自身の中学生時代に体験したこと・・・・
○不良グループによる、壮絶な暴力と、金銭巻き上げの日々
○親にも先生にも相談できない苦しみ
○自分が上級生になってからはいじめる側に回り、されたのと同じ事をしたこと
○それに嫌気がさして、不良グループを脱退したこと
などを話した。

僕が違和感を感じたのは、公演の内容ではなく、客席から幾度となく笑いが漏れることだった。
笑う内容か???
たしかに、パネリスト氏のユーモアのある語り口は、聞き手の気持ちを軽くしてくれる。
軽い冗談に対して、軽い笑いで応えるのは、話し手に対する配慮もあるかもしれない。
とはいえ、パネリスト氏は「自殺も考えた」とまでいっているのに、よく笑えるな。
もしこれが「大震災被災者の体験談」だったとしたら、同じくらいユーモアを交えて話したとしても笑えるか???

僕は最初、「笑った人たちは、イジメの問題を軽視しているのだろう」と思った。
だが、考えるうちに、それも違う気がしてきた。
この公演はそもそも有志参加だし、その上たくさんある公演の中から、興味のある内容を選んで受講しているのだ。
そんな人たちがイジメを軽視しているとも思えない。

結局、僕がひとつの仮説として考えたのは次のようなものだ。
みんな、笑って誤魔化している。
イジメ被害者だった人は、大人になってからもそれを忘れない。
心の傷が完全に癒えることはなく、「大人になったんだから」「ずっと昔のことだから」と、自分自身に折り合いをつけている。
加害者だった人も、一部を除けば、おおよそマトモな社会人になっている。
自分が加害者としてイジメに関わった過去は、良心に大きな影を落とす。
「昔はワルだったけどさ」「やんちゃな年頃ってやつ?」「俺だけが悪いんじゃないよね」
みたいにして、同じく自分自身に折り合いを付けている。
傍観者だった人たちにも、ぬぐいきれない罪悪感を残している人が多いはずだ。

みんな大人になって、子供のいじめ問題に向き合おうとしているが、自分のいじめ問題は過去のこと・・・済んだことにしておきたい。
だが、本当に済んだこと、今は客観的に問題を見つめられるのなら・・・深刻な話の最中に笑いが漏れることはないはずだ。
イジメによる負の遺産は、生涯消えないのかも知れない。

さて、つらつらと思うところを書いてみたが、ではどうすればイジメはなくなるのか、などと問われても困る。
そんなアイデアがあるなら最初に書いている。
もし、これを読んでくれた人に一つ提案するとすれば、「逃げ場所を作ってやってほしい」だ。
社会は不平等で不公平な修羅場であり、学校はその縮図だ。
イジメがなくなるなんて、戦争がなくなるのと同様にあり得ない。
1000年後にも人類が滅びていなかったとしたら、やはりイジメも滅びていないだろう。
(イジメをなくしたいという思いが大切で尊いことは言うまでもないが。)
大切なのはドロップアウトする自由ではないのか。
社会からドロップアウトすると「食っていけるかどうか」という問題が出てくるが、学校は違う。
そんなときこそ、親が守ってやるべきじゃないのか。
親の真価は、おもちゃを買ってやることでも学費を出してやることでもない。
子供が社会的困難にぶつかったとき、受け皿になってやること。だと思う。

つい最後まで真剣に書いてしまった。
申し訳ない。


ゴハンと腹筋のこと

どーも。ご無沙汰です。
宿の方のオフィシャルブログと、このアスリート系趣味ブログを分離してみたはいいけど、どうもこっちの方が滞るなぁ・・・
まぁ、日々のトレーニングとか載せてもつまらんし、そんなしょっちゅうレースがあるわけじゃないし、仕方ないか。

プールとか伊良部大橋とか
相変わらず、ひとりで60kmランやったり、バイクの後に保良川プールに飛び込んだり。
仲間と楽しく走るのも嫌いじゃないけど、やっぱり基本的には一人が好きらしい。

さて今日は、食生活とランニングフォームについて、最近気づいたことを書いてみようと思う。
それぞれ別のテーマなので関連性はナシw

断酒後の食生活

断酒の話はあまり触れたくないのだが、食生活の転換点として重要なので、全く触れないわけにはいかない。
とりあえず現状として、すでにアルコールに対する渇望は全くなくなったが、酒の座での「疎外感」だけがちょっと胸に引っかかるところ。
みんなが流行のドラマの話で盛り上がってるのに、自分はテレビ見ない、テレビなんて嫌い、って感じに似てるかもw

で、食生活だが・・・甘いものを欲するようになったのだ。
一年近くMEC食(低炭水化物、高タンパク高脂質)を続けてきて、糖質、炭水化物への未練はほとんどなくなったと思っていたのに。
あ、夏の間、一日ひとつのアイスクリームは嗜好品として楽しんでいたけど。
それが最近は、食後にデザートが欲しくなる。
食間にもお菓子やパンをつまみたくなる。
YOMEからは「あんた、女子になってきたね(笑)」と。
うーむ、そうかもしれない。

「食生活において、人類には二種類しかいない。酒飲みと女子である」

by さっしー
んっんー、名言だなw

さてここで問題だ。
身体はどうにも糖質を欲しているらしい。
それを受け入れるか、拒絶するか。
流されるか、抵抗するか。
身体を信じるか、エゴを信じるか。

そりゃ糖質は良くないことずくめなのは、MECを始めたときに学習した。
それに、すぐ太る。
だが、身体の方は、アルコールの縛りから解放されて、より素直に必要なものを訴えているのではないのか。
いや、アルコールの代替品を求めているだけなのだろうか。

結局考えてもわからん。
僕は身体の方を信じることにした。
試しにパンやご飯を食べてみると、どうやら底なしに欲するわけではないらしい。
昼にたくさん食べれば、夜は糖質への衝動はやってこない。
よし、これでいこう。

ムリはいかん。

楽に楽に、水が流れる如く、自然に。
身体には数億年分の叡智が蓄えられているのだ。
そっちに身をゆだねよう。
あ、mecやーめた、ではないのでw

ついでだが、断酒直後はたくさん飲んでいた、コーヒーや冷たいお茶、ジュース類は、だんだん量が減ってきた。
最近は常温の水が多い。
これも別に、健康のためにがんばっているわけじゃない。
ただ、水がうまいと思うだけだ。
冷蔵庫を開けるとき、自分を俯瞰して眺めてみると、どうもホントにそのジュースが飲みたいわけではない気がしてきたのだ。
ただの惰性、手持ちぶさた。
缶を開けて、口をつけても、たいして味わうでもなく、乱暴に喉に流し込むだけ。
そうだ、いつもこうしてビールを飲んでいた!
身体の声に耳を貸していたら、できることではなかったはず。

まだまだ過渡期だと思うので、これからもしばらくの間は、食生活は落ち着かないかもしれない。

ランニングフォーム覚え書き

一年くらい前から、ペースを上げて走ったときに、腹筋に違和感、痛みを感じることが多くなっていた。
ランニングでは腹筋を使うもの、それが痛くなるということは、筋力不足なのだろうか・・・
などと思っていたが、先日走っているときに、答えになりそうな経験をしたので書いておこうと思う。

宮古島も朝晩はすっかり涼しくなった。
水を浴びながら走らなくても大丈夫だし、重いペットボトルをぶら下げる必要性もなくなってきた。
当然、ペースも上げられる。
その日は夜中、気持ちのよい風の中を走っていたのだが、けっこー良いペースで走れているので、欲が出てさらに負荷を上げてみたりした。
で、やっぱり来たのだ、あの腹筋痛が。
視界は、かろうじて道路が見える程度の暗闇。
身体と対話するにはちょうどよい環境だ。
痛いな-、と思いながら、身体の動きをよーくチェックしてみると・・・
心臓の負担の割に、足の動きが鈍い。
背中の中央から肩胛骨にかけて筋肉(広背筋?)が緊張している。
おや、もしかしてコレか??
スピードを上げようと頑張る余り、背筋で身体を引っ張っていたのか??
試しに意識して背筋周りをリラックスさせてみると・・・腹筋の違和感は軽くなり、しばらくすると消えた。
なるほど、背中を反ることで、腹筋の可動域がおかしくなっていたのかもしれない。
ほんのわずかなことだが、こういう発見のひとつひとつが嬉しい。
発見!と思ったら実は間違いで、別の箇所を痛めた、なんてこともよくあるのだが。
三歩進んで二歩下がるを繰り返しながら、やっぱり少しずつ進んでるなー、自分、と思うw

ちなみに僕が「背筋をリラックスさせると良い」と書いたからといって、それが誰かの役に立つとは限らない。
僕は「僕だけの身体の小さなサイン」を無理矢理日本語に変換しただけなので、それを別の人が、別の身体のために使えるかどうかはわからないからだ。
同じ理由で、本を読んでも、コーチに習っても、それだけでスキルアップするのは難しいと思う。
身体との対話に使うのは言葉ではないのだから。

今週末は、宮古の陸上競技大会。
来週末は、エコアイランド宮古島マラソン(フル)。
久しぶりにレースレポートが書けるかな♪


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