ただいま。sassy改め、風来です。
いきなり余談だけど、自分の名前にうんざりすることってないだろうか。私だけ??いや、そんなことはないはずだ。だからこそ、武士や貴族たちは人生の節目ごとに自分の名前を変えてきたのではないのか。
木下藤吉郎・羽柴秀吉・藤原秀吉・豊臣秀吉、とか。
人生のなにかをリセットしたい、というときに、名前を変えるのはとても効果的だと思う。同時に非常にめんどくさいが。
まぁ自分が名乗るニックネームくらいは好きにしたいものだ。

さて、このブログの前回の投稿が2019年。その後しばらく、NOTEに移って書いていたが、それも数年前にやめて、今に至る。
SNS絡みでの人間関係にうんざりしたのが理由。
もう書くのやーめた!!って、しばらくは肩の荷が下りた気分だったが、いつの間にか、胸のあたりにもやもやしたものが蓄積していることに気づいた。
理由もなくイライラすることが増えた。リアルの対人関係に、今まで以上に神経質になった気がする。

こうして「なにか書く」という行為は、自分の中に徐々に蓄積していく「何か」を整理してアウトプットしていくことであり、どうやらそれば自分にはある程度必要だったようだ。
私のようなタイプの人間は、世界の大半が文字や言語で作られていて、目を閉じると、頭の中で雪のように言葉が降ってきて、際限なく積もっていく。そうやって、いろいろな物が押しつぶされていく。
言葉による自家中毒だ。
思えば、「なにか書く」ことは、こうして頭の中に積もった雪を、融かして排出するという効果があったのだな。

以前の自分は、「この文章を読むであろう誰か」を意識しすぎて、それに耐えられなくなっていたのだと思う。
しかし、どうやら私にとって重要だったのは、「誰かが読む」ことよりも「私が書く」ということだったらしい。

小説だったかマンガだったか忘れたが、「日記というのは、誰にも見せるつもりはないが、誰かに読まれる前提で書くものだ」というフレーズを見て、なるほど、と思ったことがある。
ブログも、「誰かに読んでほしいと言うわけではないが、誰かに読まれるのが当たり前」という前提で書けばよいのかもしれない。
肝心なのは、読まれることを前提とした、工夫、言い回し、各種表現、画像添付などだ。ある程度真剣に文章と向き合わなければ、アウトプットによる解毒効果は望めないと思う。

特にオチはない。自己紹介と復帰宣言ということで。
・・・いや?読まれる前提ならば、オチなし宣言は駄目なのか??
次回からは気をつけます。