ども。さっしーです。
今日は非常に感情的になっている。
なぜそうなのか、そんな犬も食わぬ話は置いておこう。
ただ、せっかくなので、こういう気分でなければ書くのをためらうことを書いてみようと思う。
僕は真剣に生きている人が好きだ。
真面目に、ではない。
真面目という言葉は、元々悪い意味ではないだろうが、僕は「社会のルールを遵守して、他人との協調性を大切にして、多少の嫌なことは自ら引き受けて・・・」というニュアンスを感じる。
真面目に生きるくらいなら死んだほうばマシだ。
では、真剣に生きるとはどういうことか、説明してみたいが、うまくいくか自信がない。
僕の中で、真剣に生きるということは、言い換えれば、「己と己の人生に対して誠実であること」と同義である。
短くすると、「世界に対して誠実であること」となる。
つまり、前提として、
己と己の人生≒世界
という公式があるのだ。
通常、何億年も前から世界が存在し、そのごくごく短い時代に、「自分」というものが生まれて、いずれ死んでいく・・・と考えるが一般的だろう。
が、僕はそうは思わない。
世界は僕が生まれた瞬間、正確には意識に目覚めた瞬間に作られた。
そして、僕の成長(あるいは退化)とともに変化し続け、死ぬと同時に消滅する。
・・・・「俺は神だ!」と言っているように聞こえるだろうか。
それは違う。
これはすべての人間に当てはまることなのだから、僕が神だと言うのなら、人間はすべて神だということになる。
だが、「みんな」のことは置いておこう。
話をシンプルにするため、一人称で語りたい。
物理的な世界はもちろん何億年も前からあっただろう。
だが、世界に意味を与えたのは僕なのだ。
そして、物理的な世界は人間にとってあまり重要なことではない。
世界の意味こそが、人間を人間足らしめているのである。
僕の作った世界には、僕一人しかいない。
なぜなら、ひとそれぞれ、作る世界は違い、似たものはあっても、イコールにはなりえないから。
そういう意味では、人間は完全に孤独なのだ。
この世界に、自分一人しかいないのだとしたら、誰がこの世界を治めるのか。
当然、自分以外にない。
良いこと悪いこと、嬉しいこと悲しいこと、さまざまなことが起こるが、すべてはこの世界を生み出した自分に責任があるのだ。
そうでなければ、異世界の誰かに責任をなすりつけるというのか。
では、責任を持つとはどういうことか。
この世界の創造主は自分であるということを認識すれば十分だ。
自然と、尊厳や誇りが備わってくるだろう。
そしてそれに比例して、自分が創造主であることを、よりはっきりと認識できるようになるはずだ。
だがしかし。
この話には大前提として「自分がいる」ということがある。
世間には(とりわけ日本には)、「自分がいない」という人が多いのではないか。
人の顔色ばかり伺い、自分の意志で進むことを恐れ、そういう同類からヨシヨシしてもらって安心する。
子供時代にそういう時期があるのは仕方なく、必要悪だと思う。
「乗り越える」という経験をするために必要な「壁」なのだ。
だが、大人になってもそうやって、壁を見上げてウロウロしているだけだと、そのうち「自分がいない」のが当たり前になってしまう。
ある意味、その世界は快適だろう。
危険が少ない。嫌われることも少ない。悲しみも少ない。
だが、同じ分だけ、充実感もなく、好かれることもなく、喜びもない。
だいたい、自分がいないということは、喜ぶ自分もいないということだ。
自分がいなければ、誰が世界を治めるのか。
その世界には、生きたものはなく、ただただ虚しく空回りするだけだろう。
だから順序として、まずは自分に目覚め、その後に世界を認識して、それに責任を持つということになる。
誤解されると困るが、いわゆる「自分探し」で東南アジアを旅行したり、被災地でボランティアをするのは全然違う。
あれは一種の逃避だ。
自分探しなんて、間抜けな言葉だ。
自分はここにいる。いなくなったことなんてない。
そのことを認めて受け入れるだけのことだ。
「自分として生きられない」ことの大きな理由の一つが、「他人から嫌われたくない」ということだと思う。
だから何かにつけて、相手が気持ちよくなってくれそうな言動を選ぶ。
そうやって自分が死んでいく。
意味もなく愛想笑いを繰り返す。
そうやって本当の笑顔を忘れていく。
「自分がいない」が当たり前になってしまった人間は嘘くさい。
仮面のような笑顔が気持ち悪い。
だが、冷静に考えてみよう。
「嫌われる」ということはそんなにも恐ろしいことだろうか。
たしかに、学校という名の監獄のなかでは、命にかかわることかもしれない。
囚人というのは、自分が人間扱いされていないものだから、弱者に対していくらでも残酷になれる。
狭い監獄の中で、大勢の囚人たちから嬲り殺しにされないためには、「嫌われない」というのは重要なスキルだ。
(最強のスキルは「脱獄」w)
しかし、我々は大人になった。
監獄は過去になり、自分の世界を生きることができる。
いったいいつまで!!囚人根性を連れて歩くつもりか!!
その囚人根性こそが、社会に蔓延する腐敗臭だ!!
自分を嫌う人間からは、自ら距離を置けば良い。
第一、たいていの「嫌い」なんて、せいぜい「ウザい」くらいの、ぬるま湯のような半端感情でしかない。
身を焦がすような憎悪を長期間に渡って持ち続けるには莫大なエネルギーが必要で、よほどの経験と精神力がなければ、維持することなどできやしない。
「俺のことを嫌いなヤツは、俺も嫌い」
くらいに切って捨てれば、そうそう怖がるほどのことではないのだ。
幼い頃、まだ自分を失うよりも前、我々はやはり「自分」だった。
相手の顔色をみて自分の意思を隠すことなど知らなかった。
無邪気な時期だ。
あのころ、やはり世界の中心に自分がいた。
だが、世界と自分が完全に融合しているので、世界を認識できなかった。
一度自分を失い、そして取り戻すことは、世界と自分の両方を認識するための儀式なのかもしれない。
世界と自分がなければ、人生は虚しい。
僕の敬愛する坂爪さんの言葉を引用してみたい。
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自分の『嫌い』を表明する。それは、自分の『好き』を表明することと同じくらい大切なことだ。嫌い(NO)を表明する瞬間は勇気がいる。もしかしたら「このまま相手との関係性が途切れるかもしれない」という恐れも湧く。しかし、多くの場合、自分の嫌いを表明してもコミュニケーションは続く。恐怖心から全身が小刻みに震えることもあるが、コミュニケーションは終わらない。言いたいことを言った自分に対する信頼感も生まれるし、空間全体に爽快感の風も吹く。逆に、嫌われないために好かれよう好かれようと思って生きているひとほど、その嘘臭さは周囲にモロバレとなり、結果的に嫌われることは多い。そもそもで、嫌われないように生きる人生は疲れる。疲れを覚えるということは、何かしら『やり方を間違っている』のだと思う。
いばや通信より
幸せになりたければ、真剣に生きてください。
真剣に生きるためには、まずは自分を取り戻してください。
ではまた。