ども。さっしーです。

宿屋を始めて3年ちょいが過ぎ、多くのゲストさんたちとゆんたくしてきたのだが、そんな中で決まって聞かれる話がある。
宮古移住に関するあれこれだ。
あまりに多く聞かれるので、いつの間にか、自分の中で回答が定型文になってしまった。
例えば・・・

「なぜ移住先を宮古にしたんですか?」
—–沖縄離島移住がしたかったんです。
沖縄離島の中で、高校と大病院があるのは、おおよそ宮古と石垣の二択です。
石垣より宮古が気に入っただけです。

「不安はありませんでしたか?」
—–ありましたよー、失敗したら困るなーとか。
でも、人生は勝負なので。
やりたいことやらないと。

「人生の一大決心ですよね!」
—–そうでもないですけどね。
行き当たりばったりに生きてきたので。

「夢を叶えましたね!」
—–夢とかよくわかんないす。

ぶっちゃけて言いましょう。
「みんな!!もっと勝負しようぜ!!」

人生は勝負そのものなのだ。
好むと好まざるとにかかわらず、誰もがその土俵に乗せられているのだ。
何でもいい、自分が好きなことに没頭して打ち込めば、それだけで人生は輝く。
やりたいことに打ち込んで、やりたくないことを極力遠ざける。
シンプルなことなのだが、世間体を気遣い、失敗を恐れ、無難、無難に生きることに慣れてしまった人が多すぎるのだ。
勝負に出た上での失敗は、ときに致命傷になるかもしれないが、たいていは人生の糧となり、次の勝負を有利にしてくれるだろう。
勝負から逃げることで得た安心は、何も生み出さず、ただ人生の終末に向かって時間を浪費するだけだ。

最近、僕と同じ歳のある方と一緒に酒を飲みながらおしゃべりしたときのこと。
彼の話したことはおおよそ、
「僕は挑戦することなく40歳を迎えてしまった。
勝負を先送りし、選択を保留してきた。
でもわかってきたのだけれど、保留するという選択を繰り返すことで、勝負することなく負けてきたんですね」
ということだった。
40歳前後というのは、いろいろ考えが変わる年頃なのかもしれない。
自分自身で気付いた彼は、きっとあたらしい生き方を模索していくのだと思う。

幸不幸というのはつまるところ「落差」なのだ。
旨いものばかり四六時中喰っていたら、何を食べても感動はあるまい。
空腹こそが、食事に感動を与えるのだ。
勝負を保留し続ける人生、必勝の勝負しか打たない人生(そんなものを勝負と呼ぶならだが)、そこには、勝利、達成の快感はないと思う。
負けて、打ちのめされて、どん底を這い回る経験も、人生の一部。
怖がることはない、失うものなど、この生命くらいしかないのだから。

同様に、我が子どもたちにも、勝負と冒険をさせたいと思う。
否、放っておくだけで、子どもたちは勝負と冒険を志すものだと思う。
鳥かごにいれて、安全安心に育てていきたい気持ちもよくわかるが、それは残酷だ。
奈落の淵に立って暗黒を覗き込んで初めてわかることがたくさんある。
そのまま転落して、戻ってこれない子もいるだろう。
だがそれでも、鳥かごに閉じ込めておくよりはマシというものだ。
生きるということは、元来危険なものなのだ。
子供の人生から危険を完全に除去することは、子供を去勢してしまうのと同じだと思う。

さて、蛇足だが、宿では普段、僕はここまでハッキリとは言わない。
本音というのは人を傷つけるから。
楽しむべきおしゃべりで、ゲストさんの旅行を台無しにしては、宿屋として失格だ。
でもそれを承知で本音を聞きたいという方には話すし、自分と同じ勝負師の匂いのする方にも、もちろん話す。
ついでに言うと、このブログは、僕の頭の中を覗いてみたいという物好きな方だけが読んでいるという認識で、本音を書くことにしている。
僕自身、40歳を迎えて、変わってきたのかもしれない。
今までは「黙っていれば嫌われない」という感覚がまだ根強かった。
嫌われないということは、同時に、強く好かれることもないということでもある。
最近は、「少々嫌われることが増えても、もっと自分を前面に出して堂々と生きたい」という感情が強くなってきた気がする。
ん??頑固親父になりつつあるってことかw