ども。さっしーです。

僕のブログ歴は実は結構長く、数えてみればもう15年くらいになる。
大学卒業後、アメリカで書き始めたのが最初で、当時はまだブログという概念でなく、インターネット日記とか呼ばれていた。
単独自力留学に挑戦したはいいが、深刻なレベルで寂しく(笑)、今思えば、日本の友人たちと接点を持ちたかったんだろう。
それからmixi日記に移り、live doorブログに移り、独自ドメイン(ワードプレス)に移り、今に至る。
当然、その間何度も閉鎖と新設を繰り返しているので、このブログには2014年以前の記事はない。
黒歴史を封印するには都合がよいのだが(笑)、記念に残しておきたかったログも消えるのが若干寂しい。

前置きが長くなったが、今回は僕が覚醒したときのことを、思い出しながら書いてみたい。
あの日以降、アスリートの生活が始まったんだと思う。

あれは2010年の秋。
三河湾を100km歩く大会に出場した。
ふむ。調べてみるとまだ続いているらしい、あの大会・・・
当時の制限時間は30時間。
細かい規定は少なく、自力で、安全に留意して、公共に迷惑をかけずに歩き切ればOK。

当時、僕にとってこれはものすごい挑戦だった。
暴飲暴食、運動不足、酒と煙草で、若さという資産を食いつぶして30を過ぎた僕が、何の準備もなく挑戦しても、勝ち目はない。
だから出場を決めて以来半年間、コツコツとウォーキングを積み重ね、大会シーズンには毎週30~40kmくらいを歩くようになっていた。
食事も少しずつ気をつけるようになり、体重も当時の自分なりにかなり絞った。
煙草も減らせるだけ減らした。
当時の僕は、それなりに稼ぎは良かったのだが、もっと一生懸命働いて金持ちになるとか、経営者として後進を育てたいとか、他人から一目置かれるビジネスマンになりたいとか、そういうのがなんか違うと思うようになっていた。
徐々に身体が衰え、スタイルが崩れ、生活習慣病の影が忍び寄っていた。
金や地位がなんだというのか!!
そりゃあ多少のワクワク感はあるが、この程度か!?
こんなことのんために、みんな人生を捧げているっていうのか!?

僕は昔からギャンブルが好き(というか中毒)だったが、あれは一瞬の血が沸き立つような感覚がたまらないのだ。
だが、負けが込んでいるときは、胃液が沸き立つような気分になるw
そして、そんなに強くもなかった僕は、ギャンブルが破滅への一方通行であることは割と早くから認識していた。
だが他にあの感覚を味わえるものもなかったので、完全にやめることは難しかった。

100kmを踏破することができれば、だんだん先細りに、灰色になっていくように見えた人生に、光が差すのではないかと期待していた。
ん?もしかしたら僕は、破滅や胃液と無縁のギャンブルを求めていたのだろうかw

とにかく、大会は始まった。
朝9時、ほら貝がブォォォーーー!と鳴り響き、参加者たちが一斉に歩き始める。
レースではないので、基本的にみんな急がない。
僕は一緒に参加した、友人のMと一緒に、とりとめもなくおしゃべりしながら、ぼちぼち歩いた。
時速4kmで歩けば、25時間の計算だが、後半、長い休憩が必要になるのは間違いない。
急がず、立ち止まらず。
10kmほど歩いたところで、堤防の土手で座って一休みしたのを覚えている。

「10kmを約2時間だから、順調だな。これをあと10回繰り返すだけだ」
「そんなに甘くないのはわかってるくせに」

実際、甘くはなかった。
Mは徐々に失速し、30~40kmのあたりでリタイヤ。
少しずつ日が傾き、長い長い夜になる。
そして、ここからはひとりきりだ。

この大会、マラソンと違って、結構な荷物を持って歩かねばならない。
徹夜で歩くので、照明持参がルール。
10月の愛知県は夜にはかなり冷えるので、防寒着は必須。
雨に濡れたら致命的なので、雨具も。
靴擦れ必至なので、応急処置セット。
その他、参加者の判断でいろいろ。
(食料については、国道沿いなので、コンビニが頼れる)

僕の場合は、最低限の荷物で臨んだ。
僕の脚力では、荷物なしでも100kmは厳しいと思ったからだ。
実際、50kmあたりを過ぎてからは、足裏がどんどん痛くなってきた。
腿やふくらはぎも痛いが、足裏が特別に痛い。
しまいには、剣山の上を歩いているような感じになった。

光に群がる虫のように、深夜のコンビニに引き寄せられて、ビールと軽食を買う。
痛みが限界だったので、アルコールが鎮痛剤になることを期待した。
コンビニの駐車場は、野戦病院さながらだった。

呻いているひと、ボヤいているひと、談笑しているひともいるが、みな、立ち上がりたくない、もう歩きたくないと顔に書いてある。
それでも、ひとり、またひとりと、野戦病院から旅立っていく。
ああ、人間って強いな。

靴を脱いで、足の様子を見てみると、あちこちマメだらけだ。
そして、むくんで一回り大きくなった足が、靴に入らない。
いっぱいに靴紐をゆるめて、拷問器具のような靴に足をねじ込む。

残りはまだ30km以上ある。

勇気を振り絞って歩きしたものの、一歩一歩が激痛だ。
溶岩の上を歩いてるのか?
ビールは最初の一本こそ、しばらく効いたが、二本目はたいして効かなかった。
そして、胃腸も限界に近づいていたので、三本目は絶対に吐くと思って自粛した。

東の空が少しずつ明るくなってきた。
夜明けが近いようだ。
僕のタイムアウトも近い。
いっそタイムアウトしてしまいたい。

ウォーキングは、ランニングより楽だと思われているが、実はその限りでもない。
ランニングは跳躍の連続なので、トータル時間のうち、宙に浮いている時間が結構長い。
逆にウォーキングは、絶えず全体重を足で支えている。
ランニングのように呼吸がゼェゼェいうことはないが、足への負担は意外と大きい。
そして、これは僕の持論だが、時間が長く、強度が低いという特徴が、体力の低い者を地獄に落とす。

高強度の運動というのは、消耗も早いが、回復も早い。
そして、全快時の体力を仮に100とすれば、100使い切ることはほぼ不可能。
身体と脳の安全装置が、「これ以上はヤバいぞ」という警告を出すからだ。
100近くまで使い切れるのは一握りのトップアスリートに限ると思うが、同時に彼らは、故障や、場合によっては生命の危険ギリギリのところで勝負しているのである。

逆に、ウォーキングのような低強度の運動は、身体の安全装置があまり働かない。
もう限界!と思っても、歩くだけなので、気力さえあれば、初心者でも100近いところまで体力を使い切れてしまうのだ。

80kmあたりのエイドステーションで、関門制限15分くらい前だった。
つまり、ここから快調サクサクペースに復帰しない限り、次の関門でアウト。
ああ。ベホマが使えたらな・・・
精根尽き果て、リタイアした。

リタイアバスのシートに腰掛け、もう歩かなくてよいという安心感に浸った。
地獄は終わった、生き延びた。
安心感をひとしきり噛みしめると涙が出た。
過去、これほどなにかに必死になったことがあっただろうか。
自分なりに、必死で生きてきた自負はあったが、命を削るような必死さとはこういうことだったのか。
バスの窓から、タイムアウトギリギリで歩き続けている選手たちが見える。
なんという敗北感。
上位で、余裕でゴールした選手たちよりも、あのギリギリの選手たちに羨望を感じる。
自分がついに諦めたあの道を、彼らは進んだのだ。
彼らの苦痛が僕以下だったなど、言えるはずもない。

「とにかく、もううんざりだ、二度とこんなことはやらないぞ」
と思いながらも、多分あのときに火がついたんだろうな。
数週間後、足の痛みが引いた頃、4ヶ月後にフルマラソンに挑戦する決意をしていた。
ランニングは10kmまでしか経験がなかったが、不安よりもワクワク感がはるかに勝った。
人生にはこんなにも面白いことがあった。
ああ。死にかけた甲斐があった。

昔話はおしまい。
その後も紆余曲折を経て、現在に至る。
めでたしめでたしw

ではまた。