プロローグ

 彼は歩道のアスファルトに寝転んでいた。泣き出しそうな曇り空を眺めて、静かに思う。やれやれ、にっちもさっちもいかぬことになってしまったな。空を眺める視界の隅では、彼の3歳になる末娘、マーシーが心配そうにこちらを覗き込んでいる。彼はすでに敗北を受け入れていた。同時に今、もうひとつのレースがスタートしたこともわかっていた。さぁ、第二ラウンド、地獄の進軍がはじまる。彼は腹筋の痙攣に顔をしかめつつ、体を起こすのであった。

CH.1 号砲

 M島100kmマラソンの号砲が鳴ったのは、午前5時であった。風光明媚な観光地として知られる当市も、今はまだ闇に包まれ、静かな海鳴りが響くのみである。このマラソンは、M島をぐるりと一周し、14時間を制限にスタート会場にもどってくる。100kmマラソンと謳っているが、距離の足底が比較的曖昧で、年によって100kmだったり、102kmだったりする。彼の知る限り、100km未満だったことはない。彼にとっては今年で7度目の挑戦だった。最初の年は完走できなかった。60kmあたりで完全に脚が動かなくなり、「無理ゲー、無理ゲー」と呪詛を呟きながら80kmまで粘り、ついに折れた。翌年は出走せず、翌々年、ついに念願の完走を果たした。13時間以上を費やしたが、人生の一大事業を成し遂げたような達成感、陶酔感に酔いしれた。その後は毎年出走し、完走を続けている。昨年にはついに9時間台をマークし、地元一位の称号を得るに至った。当然今回も、その称号を防衛しつつ、ベストタイムを更新するつもりだった。それが当然だと思っていた。
 マラソン大会というのは大抵、テンションの高ぶった選手たちが、号砲と同時に、実力に不相応なスピードで突っ込んでいくものだ。序盤でのオーバーペースは、後半での大失速につながることを彼は十分承知していた。人間魚雷についていってはいけない。綿密に試算した設定ペース、作戦を守ることが大切であった。最初2kmをウォーミングアップ、次の2kmをフォームとペースの安定化に使って、そこから予定の巡航ペースに乗るつもりだった。作戦通りにいけば、トータルで8時間半、地元勢の記録更新を狙えるはずだった。

CH.2 予兆

 彼は友人のKKDと無言で並走していた。 KKDの蛍光オレンジのトップスが眩しい。KKDは彼にとって、どうしても負けたくない相手だった。珍しい趣味を共有する仲間であると同時に、レースにおいては、歯ぎしりするような敵でもあった。彼はKKDに対して、スピードで負ける気はしなかった。KKDの持ち味は圧倒的な安定感であり、彼のレース運びが上手く行かず、失速したときにKKDにつかまるというのが、負けるときのパターンであった。案の定、KKDは彼の序盤のペースに無理について来る気はなかったらしく、徐々に後退し、気配は消えた。彼は知っている。怖いのはこれからだ。一度開いたKKDとの距離が縮まり始めたときが、破綻への序曲なのだ。
 今、彼より前を走っている選手は30人くらいだろうか。50人はいまい。参加者が600人くらいなので、いい位置で走っているとも言えるが、オーバーペースのリスクも高い。このペースを最後まで維持できる選手は、片手で足りる程度だろう。当然彼は、その片手に入るつもりでいた。闇の中、ランナーたちの息遣いとさまざまなピッチの足音、月明かりを感じながら思う。今の自分は、なんて美しく走っているのだろう。昨年の夏からずっと取り組んできたフォーム改善は、ついに完成の域に至ったと感じた。全身が狂いなく連動し、着地衝撃がスムーズに次の跳躍の推進力に変わっていくのを感じる。まるでネコ科の動物になったような気分だった。だが、その陶酔感とは裏腹に、奇妙な違和感も覚え始める。妙に喉が渇く。お尻のあたりに触れてみると、すでにウェアが汗で重くなっている。走行距離はまだ5kmに満たず、ランニングに最適とも思える気温であるにもかかわらず。だが、のどの乾きや発汗量というのは、意思で制御できる事象ではない。走る喜びを堪能しつつも、一抹の不安を抱えながら、彼は闇の中を走り続ける。

CH.3 明らかな違和感へ

 片道4kmの長大な橋が、二度目の折返しポイントだ。まだ暗い往路でトップ選手とすれ違う。すでに2位とは圧倒的な差をつけている。そして、彼が復路にさしかかるころ、東の空が白み始めた。折返しポイントというのは、後続選手たちの様子を探るのにちょうどよい。KKDの蛍光オレンジのシャツはすぐに目についた。ざっくり、1kmくらいの距離だろうか。時間にすれば約5分。ほぼ計算どおりである。すれ違いざま、目線を交わす。お互い、負けねーぞ、というオーラをぶつけ合っているようでもある。彼は思う。次の折返しポイントまで20km弱。そこで距離差が2kmに開いていれば、勝算は大きい。もしも1kmのままなら、かなり危険、縮んでいたら配色濃厚というところだ。
 この往復8kmの橋のエリアは、速く走っても遅く走っても景色の変化がなく、大型船を通過させるための大きなアップダウンもある。メンタル的な負担の大きいエリアだ。まだまだ序盤のここで、体力はもちろん、精神を消耗するのもアウトだ。彼もそれは承知で、焦らず、息を乱さぬよう、淡々と坂を越えてゆく。
 橋を渡りを終え、市街地を走りながら彼は思う。この大会も、ずいぶんとえげつなく運営コストを削ったものだ。わかりにくいコーナー、信号だらけの大通りにも、走路員がいない。仮設トイレがひとつもない。エイドステーションも激減した。参加費は同じ、参加者も同じくらいなのに、浮いたオカネをどうしたというのだろう。その苛立ちを客観視しながら、自分の精神状態も不安定なことに気づいた。不正横領邪悪に対して憤ることと、アスリートとして平常心を失うことは別の話だ。自分の中で、なにか良くないことが起きているのかもしれない。エイドステーションでは毎回、スポーツドリンクをコップ二杯と、食べ物があるところではオレンジを何切れか詰め込んできた。脱水が怖いので仕方ないのだが、このペースで給水を続ければ、胃に深刻なダメージを受ける可能性が高い。さらに、発汗過多で多量のミネラルを失えば、筋肉の痙攣を誘発する。小さかった不安は、徐々に危機感に変わりつつある。

CH.4 ステージ2へ

 50kmを過ぎた。まだまだ、フルマラソン1本分の距離が残っている。長い上り坂を越え、ふらふとたどり着いたエイドステーションに、末娘のマーシーがいた。所用で午前中忙しい彼の妻の代わりに、友人の女性がマーシーを連れて応援に来てくれたのだ。マーシーはいつも家族のようにかわいがってくれる彼女を「おかーたん」と呼ぶ。彼は思わぬところで二人の姿を認めて、一瞬目を疑ったが、なんとか苦悶の表情から笑顔を作る努力をした。エイドでスポーツドリンクを飲んだ直後、いよいよ胸焼けに耐えきれなくなり、裏道に入って二度嘔吐した。黄色い嫌な匂いのする液体に、オレンジの薄皮がいくつか混ざっていた。胃を空けたら少しだけ気持ちがラクになった。ああ。負けたな・・・。
 ここに到達する前の折返しポイントで、KKDとの距離は約1kmのままだった。遠目にオレンジ色の光点を見たとき、それがKKDでないこと願ったが、虚しいことだった。実際、彼がKKDに抜かれるまでに、時間はかからなかった。彼のレースは終わった。
 ウルトラマラソンは、第一義的には、他の陸上競技と同様、ゴールタイムを競うスピードレースである。だが、そういう意味でウルトラを走りきれる選手は、参加者のうちの数%だ。多くの選手達は、ウルトラマラソンの第二義的側面である、サバイバルゲームに参戦することになる。即ち、脚がイカれ、胃を壊し、心が折れるか折れぬかのギリギリのところで踏みとどまりつつ、制限時間内にゴールを目指すということだ。
 彼はマーシーとおかーたんに挨拶をして走り出そうとするが、突如腹筋の痙攣に襲われ、立ち止まる。背中を反らせて腹筋を伸ばそうとすると、次に背筋が痙攣する。仕方なく座り込もうとすると、今度は太ももが痙攣し、膝が曲がらない。四苦八苦して腰を下ろしたが、お腹の薄い皮膚の下に、ゴルフボールのような物体がうごめいている。顔をしかめてそれをマッサージして、なんとか鎮めるが、次の瞬間には別の場所にゴルフボールが出現する。彼は諦めて、寝転がる。やれやれ、にっちもさっちもいかねぇな。よく見れば、肘やふくらはぎで、大量の塩が結晶化している。多量の汗の水分が乾き、塩分だけがそうやって残ったようだ。これなら痙攣が起きないほうがおかしい。内心、苦笑いする。
 しかし、彼は自分でも意外なほど、絶望してはいなかった。初期の違和感からして、この状況はありうることだったからだ。とにかく今大切なことは、気持ちを折らずに前に出ることである。レースは終わった。さぁ、サバイバルの始まりだ。初心に帰るというのがふさわしかった。彼が長距離種目に挑戦し始めた頃、それはいつもサバイバルだった。自分が限界と呼んでいた壁の向こう側に到達すること。壁の向こうにはまた壁があるが、それもまた乗り越えられること。そうして少しずつ自分の世界が広がっていくことに喜びを感じていた。今回、思わぬところで壁にぶつかってしまったが、それを乗り越える喜びを忘れてはいなかった。

CH.5 犯人探し

 筋肉は騙せる。もう少し難しいが、胃も騙せる。痙攣や筋肉痛、吐き気と折り合いをつけながら走ることは、ウルトラの世界では必要なスキルだ。彼にとってもっともガマンできないことは、「代謝系の異常」であった。自律神経のトラブルと言ってもよい。超低速で走っても、あるいは歩いているだけでも、酸欠状態のように息が上がる。涼しいのに大量発汗したり、逆に突然、低体温症になったりする。低体温症は最悪中の最悪で、リアルに生命の危機を感じる。低体温症だけはなんとしても避けねばならない。
 彼は、時に走り、時に歩きながら考える。彼は典型的理系タイプの人間で、脳内はいつも文字の驟雨にさらされていた。夢中で走っているときだけが、文字を忘れられる瞬間だったのだが、今回のようにボロボロになってしまっては、それもかなわない。仕方がないので考える。なぜこうなってしまったのだろう。
 レース計画は問題なかった。ペース設定も、十分な練習データから、危険値を考慮した上で算出し、しかもレース本番でも、それに執着することなく、必要に応じて目標を下方修正した。天候も問題なかった。装備も問題なかった。エイドが減ったのは面白くなかったが、致命的ではなかった。練習量については、完璧だとすら思った。そして、ようやくレース序盤の、大量発汗に思い当たった。そうだ。最初から悪かったのだ。つまり、この現状は、スタート前に約束されていたわけだ。彼は愚かにも、バッドコンディションでレースに臨み、しかも潰れるまでそれに気づかなかったというわけだ。
 計算上、まだまだ5~6時間を路上で過ごさなければならない彼は、さらに考える。これは典型的な失敗レースのパターン。快走できなかったレースの多くは、大なり小なりこのパターンだ。この負けパターンを克服することこそ、競技者として最優先課題なのではないだろうか。そこでふと、彼が何年も前に、憧れだった先輩アスリートから聞いた言葉を思い出した。
「俺は大して速いわけじゃないよ、コンディショニングが上手いだけさ」
彼は自分なりに一生懸命走り続けているが、明らかに不格好にフォームが乱れたオジサンランナーが彼を抜いていく。歯ぎしりをしながらも、彼は「犯人」の見当がついたことに満足していた。コンディショニング。なぜもっと早く気づかなかったのだろう。

 CH.6 ゴール

 その先は、定番のサバイバルゲームだった。残りの距離を数えては、数えてはいけないと自分に言い聞かせ、もう無理だと思っては、歩いたり座ったり寝転んだりして、体が冷えて低体温症に襲われる前に動き出せと自分を鼓舞し・・・。着地の衝撃を逃がすように、苦痛と苦悩に正面からぶつからないように、ゆっくり少しずつ確実に残りの距離を削っていく作業。痙攣も吐き気も襲ってくるが、最初のときよりは軽くなった。サバイバルをサバイバルとして受け止める以上、彼にはそれなりの自信はあった。一度も、ゴールを疑いはしなかった。
 耐え難きに耐え、ついに残り1kmの標識を確認したとき、彼は最後のリミッターを解除した。余力を持ってゴールゲートをくぐることだけは、許せなかった。「限界」は自分が設定しているだけである。残り1kmならば、瀕死の状態からでも全力疾走する自信があったし、ゴールしてからなら動けなくなっても構わなかった。コツはもう知っている。脳の奥の方にある、黄色と黒のシマシマで縁取られた箱に入った、赤いボタンを押すだけだ。その瞬間、その後の数分間、彼の肉体はスタート前のフレッシュな状態だった。レース全体を通して最速の、キロ4分半ペースで疾走した。数分前に彼を抜いていった選手たちを、ごぼう抜きにして爆走する。ゴールゲートから会場アナウンスが聞こえてくるが、何を言っているかよくわからない。昨年はここで、「地元一位の選手が帰ってきました!」というアナウンスに酔いしれたのだが。結局彼は、ペースを落とすことなく、むしろさらに上げながら、ゴールテープを突き抜けて、そのままアスファルトに倒れ込んだ。ラスト1kmにおいてはじめて、彼は自分を勝者だと思った。

(完)

※当作品はフィクションです。実際の人物、団体とは関わりありません。

おまけ

ゼッケンの裏にロキソニンを仕込んでいたそうですw