少し前に調子に乗って走りまくったせいか、左アキレス腱周辺を軽く故障。腱鞘炎みたいな感じ??まぁよくあるレベルのトラブルで、だいたい1~2週間で完治する。「だから言ったでしょーがっ!そんな走り方は無茶だって!!」
・・・という類のコメントはスルーさせていただきますw 
人の基準、世間の常識、そういうのが煩わしくて、こんな生き方をしている次第なのでwww
加えて、YOMEから拝領した夏風邪、これもごくごく軽いのだけれど、走るとなると10kmくらいで心臓バクバクw
しばらくおとなしくすることにしよう・・・あと数日は。

 最近ブログもサボってるし、明日の早朝ランも休みだし、今日は島酒など飲みながら、徒然なるままに・・・まぁつまり、酔っ払いの戯れ言ですなw

 そう、5月で4才になったいのが、また不思議発言をした。
いのは姉のみぃと逆で、運動神経はいいのだが、言葉の発達はけっこーゆっくりめ。
4才のころのみぃは、こっちもタジタジするほどよくしゃべった気がするが、いのは相変わらずマイペースで、ボキャブラリーも少ない。
そんないのがある日、窓の外を指さして言った。

「ねぇ、あそこに女の人がいるよ。おこりんぼうだよ」

もちろんそこには誰もいない。
あるのは半ばジャングルと化した、うちの庭だけだ。

「ねぇ、おこりんぼうの女の人、ずっとこっち見てるよ」

うーむ。
「それは、まっくろくろすけだよ!」
といいたいところだが・・・
ホントに何か見えてるのか??
現在進行形で見てるなら、なんと言えばいい??

「いの、外に女の人がいるの??その人、足はある?」

「足はないよ。おこってる。赤いお顔してる」

1週間の間にこんな会話が数回あって、YOMEはドン引き。
後に語ったところによれば、
「お化け屋敷は大丈夫だけど、いののアレはヤバすぎ!!」

最終的に僕が解釈したところでは、いのの言う「おこりんぼの女」は、バナナの花だったようだ。
赤黒く垂れ下がった円錐形の物体は、顔に見えなくもない。
台風でバナナの木がなぎ倒されると(うちでは毎年恒例)、「おこりんぼ、いなくなったよ」と・・・w
まぁいのの言葉が未発達なので、真相について答え合わせはできないのだが。

そして長文モードのこのブログではよくあることだが、ここまでが前置きだったりするw

いのとのこのやりとりを通して、僕はますます、「人は世界をありのままに見ることができない」という考えに確信を持つようになった。
僕らが見ているのは、「世界」ではない。
「世界に関する解釈」なのだ。

少し話はそれるが、僕は子供時代、中高一貫の進学校に通っており、それはそれは立派な・・・落ちこぼれ組だったw
中学受験に成功して入学したときは鼻高々だったが、選抜チームのような学校で生き抜く根性はなかった。
気づいた頃には勉強はなにもかも嫌いだったが、高3の時に出会った生物学の先生の授業だけは好きだった。
この生物学への興味がとっかかりとなり、1浪したものの、なんとか国立大学に入るところまでの猛勉強(短期詰め込みw)ができた。
ん?僕の学歴なんぞどうでもよいが、例の生物の先生だけは今でも尊敬していて、ときどき彼の言葉を思い出すのだ。
曰く「生まれたばかりの赤ちゃんは何が見えていると思う??恐らく、解釈がないのだから、マーブル模様のような、ぐにゃぐにゃの映像が見えているだけなんじゃないだろうか」と。

解釈というのは、思考のショートカットではないだろうか。

視覚に関しては「見えているものは存在する」という認識が強いだろうが、聴覚であればもっと説明しやすい。
例えば一般に、年を重ねるた人ほど、人の話を聞かない。
あくまでも「一般に」である。
万人がとは言わない。
だが概して人は、目下年下の話を聞くときに、「ああ、それは知ってる。俺も経験した」という先入観を持っているのではないだろうか。
逆に、目上年上の人間に話をしているときに、一番言いたかったこと、話の本題に入ろうとしたところを、言葉をかぶせられて沈黙せざるを得なかった経験は誰でもあるのではないだろうか。
人の話を最初の何割か聞いて(それすら聞かない人もいるが)、その先の展開やオチは、自分の中にある経験に置き換えてしまう。
それもまた、解釈のなせるわざだ。
(コミュニケ-ションとして問題があるのは別として)

だが、視覚についてもそうなのではないだろうか。

有名なだまし絵としてこんなのを見たことがないだろうか。

image-ff549

これが美女の横顔に見えるか、鼻の大きな老婆に見えるか。

僕は性格診断とかに興味は無いので、どっちに見えようと興味は無い。
どこをどう見たら、見えなかったもう一方が見えるか、だけだ。

かように、人は「解釈」を持って「見て」いるのだ。
「バナナの花」という「解釈」を持たない「4才児」が、それを「怒った女の顔」と「表現」したとしても・・・
それは我々大人が無意識に行っている思考プロセスと、違いはないのかもしれない。

さてさて、そして・・・

我々が見ている世界は、個々人の解釈に過ぎないとしたら??
「世界は人の数だけある」なんて言葉も、ただの教訓でもおとぎ話でもない、リアルな話にならないだろうか。
僕の見てる「赤」は、あなたも「赤」と呼ぶが、解釈としてはホントに同じ「赤」だろうか??
幼い頃から絵画に親しんできた人は、そうでない人よりも、多くの微妙な色合いを見分けるようだ。
同様に、音楽に親しんできた人は、少しの音の快不快、ハーモニー、そういうものに敏感なようだ。
まさに、色や音に関するボキャブラリー??
そして、先のいのの例を取れば、ボキャブラリーの広さは解釈の広さとも取れる気がする。

人間には五感があるという。
それぞれに個々人の独自の解釈があり、さらに五感を統合する解釈があるとすれば・・・僕の・・・あなたの・・・最終的な解釈は世界に唯一つと言っていいだろう。
我々は、解釈抜きには、世界を見ることも、聴くことも、嗅ぐことも、味わうことも、感じることもできない。
まるで、ガンダムの中で、モニターや計器類を相手に奮闘しているパイロットのようだ。
隣には別のガンダムがいる。
が、そのコックピットのモニターに、自分と同じものが映っているかどうか、確認する術などないのだ。
我々は自分のコックピットから出られない設定になっているからだ。

まぁそんな感じで、我々は自分と似た条件のガンダムたちで集まり、仲間を作り、時に結婚し、相手の見ているモニターに自分が見ているのと同じものが映されていることを信じたり祈ったりしているわけだ。
はっははは!!滑稽なり!人間!!
だが、それ以外どうしようもあるまい。

最近ちょっと変な感覚を覚えた。
晴れ渡ったある日、ぼんやり軽トラを運転していて、ふと思ったのだ。
「せまいなー、身体の中・・・」
なんだろ??今のところ自殺願望とかないのにwww
でも、「解釈」の存在しない世界、見てみたいなぁ。