久々にちょっと精神論的なことでも。

このブログのタイトルにもしている「禅」と、「競技」について。
あくまでも僕の主観として御覧ください。

禅の目的とは何か。
究極的には「悟り」に至ることだと思う。
だが、悟りに至るためには、あらゆる執着を捨て、自我から離れ、無我の境地にいることが必要。
あらゆる執着の中には、悟りたいという欲望(!)も含まれる。
つまり、悟りたいが故に悟りを諦めるという矛盾が発生するのだな。
そうすると、禅の目的とは無目的であることであり、禅的であること自体が手段であり目的であるという・・・
まぁこの道ではわりと常識的な概念だと思うけど、そうでない人には嫌がらせのような言葉遊び(いわゆる禅問答)になってしまう。

例えば、座禅をするなら、ただただ座る。
先人たちが考案した「座禅のための姿勢」はあるのでそれに従って座る。
頭は空っぽにして何も考えない・・・のだが、「何も考えないぞ」というのも一つの考えなので、すでに罠にハマっている。
強いて言うなら、ひとつの思考がやってきたなら、放っておく。
賛成したり反対したり、追い出したりしないで、去るのじっと待つ・・・というところか。
「本当に何もしない」というのは、死ぬほど難しいのだ。
禅とは、一切の目的を持たないこと、本当に何もしないこと・・・といってもいいと思うのだが、なんとも誤解されそうだ。

さて、次に「競技者」とは?
こっちは全くもって世俗的な概念なので説明は不要かもしれない。
目的は勝利、記録・・・人によっては富や名誉でもあるだろう。
とにかく体と技を鍛え上げ、エゴの塊となって試合に望む。
「勝ち負けの問題じゃないよ」
とか言ってる人は、競技者じゃない。
(もちろん趣味人としては申し分ない)
競技者の目的は勝利、手段は鍛錬。
実にシンプル。

では、禅的でありながら競技者であることは可能なのか??
真逆のような概念を同時に体現することは可能なのか??
僕は可能だと思う。

例えば、座禅しているとき。
真に悟りを開いた禅の達人が座禅しているとき、彼は何もしていない。
全く空っぽで、体がそこに座っているだけ(のはず)だ。
でも、やっぱり体はそこにあって、確かに「座って」いるのだ。

例えば、10kmのタイムトライアルをしているとき。
最初は自分の想定限界速度を意識しながら、時計をチェックし、呼吸、ランニングフォームの乱れがないか、様々なことを考え、苦しくなってきたら、目の前を走っているライバルをイメージして、必死で自分を追い込む。
必死で、走る。
だが、必死さがあるところまでいって、意識が朦朧としてきたころ・・・何もしていない自分に気づく時がある。
体は全力で走り続け、心臓が破裂しそうだ。
が、それをじっと見つめているだけの自分がいるのだ。
我に返ればやっぱり自分は死ぬほど苦しい思いで走り続けているのだが、あの瞬間は確かに禅的な境地にいたのだと思う。
(ランナーズハイでしょ、とか言わないで。説明は困難だけど、違うから)

まぁちょっと極端な例だったが、別に意識が朦朧としてなくても、その気で探していると、ランニング中には結構、禅的な瞬間があるものだ。
走っているのに走っていない。
苦しいはずなのに苦しくない。
勝利への執着すら、束の間忘れる。
そしてそういう瞬間は、料理しているとき、子供とお風呂に入ってるとき、YOMEとケンカしているときなんかにもあったりする。
たぶん、禅とは無なのだから、何とも反発しないのだろう。
あらゆる所作において、禅的であることは可能なのだろう。

蛇足だが、僕は競技者なので、勝利に執着する。
ただ、走ることと禅的な瞬間が好き。
一見、ダブルスタンダードにも見える、こんな自分のあり方も、悪くないかなーなんて思っている。