ブログタイトルを変えてみた。
旧タイトル(南の島をただただ走る)では、どうも好きな事を書けないように感じていたからだ。
なんというか、競技やトレーニング以外のネタが書きにくい。
所詮ブログ、ましてたかがタイトルなんだから、別にこだわる必要はないのだけれど、しっくりこないものは仕方ない。

ブログ・・・いや、インターネット日記と呼ばれていた時代から、すでに13年くらいこうしてネット上で文章を書いているが、思えばいつも自嘲気味なタイトルをつけていた。
「自分なんて大した人間じゃないっすから」みたいな雰囲気で。
でもなんかそれも飽きた。
謙遜するというのは、自分の謙虚さを他人にアピールしているだけであって、それによって自分の本性を向上させるわけではない。

先日、宿のゲストさんといつものようにあれこれおしゃべりをしていて、ちょっと哲学的な話になったとき、「お坊さんみたいですね~」と言われた。
そうか。そうなのかもしれない。
僕の本質は「僧」なのかもしれない。
僧という言葉は仏教色が強いが、僕が言うのは探求者という意味でだ。
(仏教は本来、仏陀の教えに従って真理に目覚めることを目的としている)
研究と実践を並行して行い、真理を追究する。
エライ人がこう言ったから、経典にこう書いてあるから、ではない。
人生のすべてが実験であり、検証であり、考察だ。
他人から知識を分けてもらうことはもちろんあるが、実験するのはあくまでも自分自身だ。

禅、とは何であるか。
目を閉じて座り、沈思黙想したりマントラを唱えたりすること、ではない。
禅とは洞察することだ。
常に注意深くあることだ。
何が本物で何が偽物か。
洞察が深まれば、「自分と自分以外」の境界線はだんだん曖昧になってくる。
その境界線が偽物だということが見えてくるからだ。
究極的には、自分と世界は完全に一体となり、そこが禅のゴールだ。

禅は「行住臥座」の行であるという。
人間の姿勢は常に、行(歩く)、住(立つ)、臥(寝る)、座(座る)のどれかに属している。
そして、そのいずれにおいても、注意深く洞察を続けていることが、禅では要求されるということだ。
今のところ、僕にはそれだけの注意深さも洞察力もない。
だが、走っている間だけは、いつも禅的でありたいと思っている。
それなりの経験のあるランナーなら同意してくれると思うが、本当に自分が上手く走れているとき、「自分は走っていない」のだ。
全身の筋肉と心臓が心地よいリズムを刻み、景色は後ろに流れ、頭は冴え渡っている。
でも、走っていない。
体は走っている。
自分が走っているのではない。
走っている自分を見ている、という感覚に近い。
そういうときは雑念も非常に少ない。
僕にとっては、走っているときが最も禅的な時間であり、真理に近づく瞬間のようにも思える。

僕はトレーニングを積んで、ウルトラマラソンやフルマラソンのレースで表彰台に上がりたいと思っている。
それは俗的なことだ。遊びだ。
だが、遊びと探求は意外と相性が良い。
探求というのは、遊びと同様、快楽の一種だからだ。
全く問題が無い。
ブログタイトルに哲学性を入れたことで、ばらばらだった物がつながった。
走ること。
断酒のこと。
離島移住のこと。
その他いろいろ、話せば長くなること。
そして、こうしてモノを書くということ。
全部僕の探求のネタであり、プロセスなのだ。

今まで以上に好きな事が書けるような気がして、ちょっとうれしい。
皆様には引き続きお付き合いいただければうれしい。