人生の出来事にはすべて意味がある・・・

もちろんいい意味ばかりではないし、そう考えるかどうか自体も自由だけど。
それにその「出来事」の最中にいるときには、たいてい意味なんて掴めない。
ずっと後になって、「あの出来事にはそういう意味があって、今の自分に至るんだな-」と気づくか、それともずっと気づかないか。

例えば・・・
一人の教師が、成績の悪い学生を嘲笑し、侮辱したとする。
その学生は憤慨する。
「友達が見てる前であそこまでバカにしやがって!!今に見てろ・・・」
そしてその教師を見返してやろうと、必死で勉強する。
そのうちに物理学の魅力に取り憑かれ、のめり込んでいくうちに、いつしかその道の第一人者となり、ついにノーベル賞を受賞する。
そのころになって、元学生は過去を振り返り、あの憎むべき教師がいなかったら、今の自分もなかったのだと気づく・・・みたいなw

僕は1月の100kmマラソンで好成績を出して以来、どうもパッとしない感じだった。
特に、最近の肉離れ。
正確には、経験のないヘンな激痛をふくらはぎに感じて、しばらく安静にして、また練習で再発して・・・
を2回くらい繰り返してから、整形外科を受診したら、肉離れと言われたのだが。

この時期に起きたこの出来事にはどんな意味があるんだろう。
去年の秋以降、レースに出る度に自己ベストを大きく更新し、その結果に味を占めて、さらにトレーニング強度を上げて、を繰り返してきた。
この故障は、そのやり方を改めなさいというサインではないだろうか。

もちろん、好タイムを出すために必死のトレーニングを積み、故障のリスクと闘いながら、自己を制し、脇目もふらず打ち込むやり方もあるし、それをやっているアスリートに文句をつけるつもりなんてない。
それを続けられるというのは賞賛に値するスゴイ精神力だ。
それに、それが仕事であれ趣味であれ、取り組み方は自由だ。

先日、友人がある本を貸してくれた。
前々から興味のあった本なので、いいタイミングだった。
その中であるクレイジーなウルトラランナーが話していた。
「100マイルを走れたら、禅の境地に達するんじゃないかと思ってた。ものすごいブッダになって、世界中に平和と笑顔をもたらすの(後略)」
うーん。そういえば僕にとってのランニングも、それに近いものだったんじゃなかったっけ。
実際、一時期はランニングを瞑想だと思ってたし。
走りながら、身体と対話する。
ペースはこれでいいか。
ピッチとストライドはどうか。
足に違和感はないか。
動きのぎこちない場所はどこか。
腹は減ってないか・・・

それが最近は、時計と対話していた。
フルマラソンを3時間半で走るペースには1kmあたりあと何秒速く走る必要があるか。
今日のタイムだと、補給で立ち止まるのは甘すぎるな。
いやー、タイムトライアル中心に練習すると、足にくるね~(ドヤ顔)
みたいな。
そりゃ怪我するわな。

レースタイムを目標にするなら、時計を相棒にするのが多分近道だ。
その代わり、ランニングは苦行になる。
もうやめようという感情をねじ伏せ、酸欠気味の身体に鞭打って走り、故障のリスクはついて回り、それで結果が伴わなかったりしたら、ひどい欲求不満になるというものだ。
でも、自分の身体を相棒にしたら、ランニングは享楽になり得る。
ただただ走っていて楽しいから、結果を求める必要もない。
自分を痛めつけるメニューも組まないから、怪我も少ない。
タイムは・・・そのうちついてくるんじゃないの?くらい。

これはひとつのチャンスだ。
自分にとって最高のランニングとはどんなか、今一度考えてみようと思う。
ついでに・・・
僕の志向として、速く走ることより、長く走ることが好きなようだ。
200km、300kmという距離を目標に日々走るのはきっと楽しい。
来年あたり、150kmクラスにはエントリーしてみようかな~♪
ん?それだって十分な苦行だろうって??
いやいや、やり方次第、その人次第ってことでwww