酒を断つことにした。
僕としては、ついにこのときがきたか、、という感じだ。
いずれそうしなければならないということは、だいぶ前から思っていたからだ。
先日、ある男がうちにビールを持ってやってきた。
彼は「統合失調症とアルコール依存症」と診断を受けて、最近まで入院していた。
多くの人が彼を煙たがって避けていたが、僕としては、精神を病んでいるといっても、自分に危害を加えたりするわけではなかろう、くらいに思っていた。
が、際限なく飲むのもイヤだったので、最初から1時間程度と約束してのことだった。
彼はずっと機嫌良く飲んでいたのだが、彼を家まで送った際、彼の家でもう少し飲んでいけという誘いがあまりにしつこかったので、それを振り払うようにして帰ってきた。
それが気に入らなかったのだろうか。
それまでの穏やかな人格からは想像できないような内容のメールが次々に届いた。
電話は着信拒否したが、それがまた火に油だったようだ。
完全に豹変していた。
挙げ句、僕がうちの家族を虐待しているという妄想に取り憑かれたらしく、夜中の2時過ぎに110番通報して警察官をよこした。
「こちらで虐待があるという通報を受けたのですが・・・?」
警察官もやや困った感じだった。
事情を説明すると、とても同情的になってくれた。
「前田さん、よかれと思ってしたことでも、精神障害の方は、その人にすがりついてしまうことがよくありますからね。
できる限り距離を取るのが賢明ですよ」
まったく、耳が痛い話だ。
自業自得だ。
この一件が断酒に向けての最後の一押しとなったのだが、これまでにもいろいろなことがあった。
宮古は牧歌的に言えば、酒文化の島だ。
が、キツイ言い方をすれば、アル中の島なのだ。
宮古に来て以来、ときどき酒の席でのトラブルは経験したが、今年は特に多い。
何かの拍子に、穏やかだった友人が突然豹変するのだ。
その姿は恐ろしい。
僕もいつかああなるのだろうか。
あるいは、気づいていないだけで、すでになっているのだろうか。
多くの人は、「自分には確固とした人格がある」と信じているだろうが、実はそうではない。
人間の内面は、いくつもの人格のようなもの、支離滅裂な思考、相矛盾する理想や信念、それらすべてに関する感情などがドロドロと渦巻いているのだ。
そこには、その人を代表する人格など見当たらない。
だが、それらのドロドロを一つのカプセルのようなものがまとめている。
そうやってカプセルにドロドロが収まっているから、人格というものが見えるようになるのだ。
そのカプセルを「統合」とでも呼ぼう。
そして、このカプセルが壊れたり、亀裂が入ったりしてしまった症状を、統合失調症と呼ぶのだ。
アルコールは統合失調症と関わりが深いと思う。
飲酒習慣は、このカプセルを壊す要因になる。
件の豹変した人々は、アルコールの作用で、一時的な統合失調症になっているのだ。
一時的なうちはまだいい。
いずれ、カプセルは修復不能になり、社会は彼を「アル中で精神崩壊した」と見なすだろう。
社会はまだ僕をアル中とは認定していない・・・と思う。
が、大酒飲みくらいには思われているはずだ。
僕は病院にも行かないし、健康診断も受けないが、自分のことは自分でわかるものだ。
メタボ健診なんて、いい例だ。
病院に行かないと、自分がデブかどうかわからないのか??鏡を見たことはないのか??
僕は自分がアルコール依存症に片足を突っ込んでいるのがわかっていた。
いつからだろう??多分だいぶ前だ。
自分の意思に反して飲んでしまう日が増えてきた。
ビールが水のように感じる。
飲んでいないときに、変に舌がもつれる時がある。
アル中に片足を突っ込んだら、節酒や休肝日などはその場しのぎにすぎない。
症状の進行を遅らせるくらいの意味はあるだろうが、時間の問題だ。
症状は決して逆戻りしない。
選択肢は3つある。
重度のアル中になるまで飲み続け、心身を壊し、社会的にも抹殺されること。
症状の進行を遅らせて遅らせて、重度のアル中になる前に天寿を全うすること。
断酒すること。
そこまでわかっていて、なぜ今まで飲み続けた???
と聞く人は、依存症というものをわかっていないのだろう。
依存を断ち切るというのは、恋人と別れるようなものだ。
恋している男に、
「あの女はロクデナシでアバズレだから、早く別れろ」
という説得に効果があるだろうか。
逆に、それで燃え上がる恋もあるというものだ(笑
そして飲み仲間というのはいたるところにいるものだ。
もちろん、みんながアル中じゃない。
健全な酒好きが大半だ。
タバコを辞めるのはそこまで難しくない。
自分ひとりの問題だからだ。
ギャンブルを辞めたときはもう少し苦労した。
博打仲間というのがいたからだ。
彼らとは、一緒にパチンコにいったり、麻雀でカネを取り合ったりするわけだが、ギャンブルを辞めると言うことは、実質的に、彼らとの付き合いを断ち切るということにもなる。
依存症の人たちは、仲間が抜けるのを簡単には許さない。
必死で足を引っ張ろうとする。
僕がいないと、いかに麻雀が盛り上がらないかを懇々と説明する。
酒はギャンブルよりもさらに厄介だ。
酒を辞めるという宣言は、きっと誰からも受け入れられない。
あ、いや、家族だけは歓迎するだろうが。
健全な酒好きは、反対すると言うより、理解できないだろう。
なぜ人生の楽しみの一つを、自ら放棄するのか!?
理解できまい、彼らはアルコールのダークサイドを知らないのだ。
お酒と上手に付き合えている人は、これからも上手にやっていけばそれでよい。
酒の道を踏み外した人間だけが、断酒を迫られる。
僕の半生(というほど長くないが)は依存症との闘いだったように思う。
依存症に関しては、専門家を名乗ってもいいんじゃないかと思うくらいだ。
依存症を克服するには、強い意志が必要だと言う人は、全く理解不足だ。
意志ではコントールできない悪習が依存症なのだから。
ある男が、パチンコ屋で空の給料袋を持って呆然としている。
パチンコ屋に入る瞬間、彼は統合失調症なのだ。
別の人格が身体を動かしている。
二度とパチンコはやらない!という決意だけでは悪習は止まらない。
恐らく、あらゆる依存症が同じメカニズムなのではないだろうか。
「意志を頼るな、システムを作れ」
というのが僕の考えだ。
例えばタバコであれば、吸わない理由、吸えない環境、他人との約束、誘惑に対処する定型文、どうしても吸いたくなったときに見る文章や画像、、などなど。
正気のうちに、正気を失いかけた時の対策をしておくのだ。
賢明な諸兄は気づいたかもしれないが、このブログ自体も、僕が正気を失いかけたときのためのシステムの一つなのだ。
3000文字も長々とこんなことを書いておいて、結局酒飲みに戻りました、、となっては、まさしく恥さらし。
飲まない理由の一つになる。
「飲むか、飲むまいか?」の葛藤に入ってしまったら、もう遅い。
負けたも同然だ。
「飲むワケねぇし」の状態を維持するために、システムは有効だ。
飲み会には、理由があればこれからも出席するつもりだ。
ウーロン茶で乾杯も、慣れれば平気だろう。
それに、帰りを心配せずに車を使えるから、出費も家族の負担も軽くなるというものだ。
最後まで読んでくれた方に。
うちの酒(主に泡盛)の過剰在庫を差し上げます。
お客さんに提供したり、お祝いに持って行ったりする分としては、あまりにも多いので。
欲しい人は、ご連絡の上、取りに来てね^^
09/12/2015 at 5:20 PM
オレが行くまで断酒は待ってて欲しかった。。。
09/20/2015 at 11:37 AM
だってさー、遅いよっw
じゃなくて、まさやは飲めばいいし、俺は飲んでるときと同じように付き合うから、何も気に病むことないよ。
違いは、俺を酔い潰すことができないことくらい・・・・w